『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

子鍬倉稲荷の祭り その3

2007年04月30日 | 歴史
いわき市平に鎮座する子鍬倉稲荷の祭礼について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも書いている。

神輿、古鍛冶甼ヨリ出テ、研甼、紺屋甼、
一甼目ヨリ五甼、續キテ新川甼ヘカヽリ、
北白土村三嶋八幡ノ社内ニ於テ、懸坐、神業アリ。
二時許モ過ギテ還御。
領主ヨリ代參ノ士三人、各馬上ニテ神輿ヲ守護シ、行列ニテ打過ル。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

子鍬倉神社を出立した御神輿は、古鍛冶町、研町、
紺屋町を経た後、本町通りを一町目から五町目と通り、
新川町から北白土に鎮座する三嶋八幡神社に行き、
そこで休み、さまざまな神事が執り行われる。
二時間くらいの後、そこを出立、帰途に着く、
磐城平藩から藩主の代理の者三人が馬に乗り、
御神輿を守るため行列に加わることになっている。

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子鍬倉稲荷の祭り その2

2007年04月29日 | 歴史
前回に引き続き、いわき市平に鎮座する子鍬倉稲荷の祭礼を
取り上げる。
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は、
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のように書き記している。


城下甼々ハ、鎮守御祭禮ト書セル大幟二本ヅヽヲ立テ、
此幟ヲ立ル事ハ三社ノ祭日皆同ジ。
前日ヨリ両側ニ竹埒ヲ結ビ、
七日ノ朝ヨリ、神輿ノ行幸前ハ、人ノ入ル事ヲ許サズ。
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いわき市平 子鍬倉稲荷の祭り

2007年04月28日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)には、
いわき市平に鎮座する子鍬倉稲荷の祭りについて
次のような記述がある。

四月七日 子鍬倉稲荷大明神ノ例祭ナリ。
此社ハ延喜式内磐城七座ノ一ニシテ、
平城内三社ノ一ナリ。

旧暦の4月7日に挙行されていた子鍬倉稲荷大明神の例祭だが、
その祭りは現在でも、まちを挙げ、盛大に行われている。
また、「平城内三社」というのは、
この子鍬倉稲荷と飯野八幡宮、牛頭天王社の3社のことだと伝えられている。
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ヨモギ摘み

2007年04月27日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)の
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)には、
次のような記載もある。
旧暦の2月、3月、
いわき地域では、ヨモギ摘みが盛んに行われていたという。

二、三月 村里ノ婦女、小兒、多ク出テ、
蓬(よもぎ)草ヲ摘(つ)ム。
之ヲ蓄置(ためおき)テ、年中、餅團子(もちだんご)ニ入レ用ユ。
牛房(ごぼう)ノ葉モ同段(どうだん)ナリ。
又、杉菜(すぎな)ヲ採リテ、乾藏(かんぞう)シ、馬ノ飼料ニ備フ。
多ク摘ミ、貫目(かんもく)ニテ賣(う)ルモノアリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦の2、3月、村里の女性や子どもたちが野に出て、
ヨモギ摘みをする。
摘み取ったヨモギは貯蔵し、
餅や団子(ヨモギ餅、ヨモギ団子)を作る時に用いる。
また、ゴボウの葉も同じように用いられる。
さらに、スギナも摘み取り、乾かして保存し、馬の餌にする。
なかには、たくさん摘んで売りに出す人もいる。

かつての農村風景が髣髴(ほうふつ)とされる。

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稲の種籾を播く 水口祭り その2

2007年04月26日 | 歴史
水口祭りについては、高木誠一も『磐城北神谷誌』のなかで、
次のように書き記している。

「水口祭り
 苗代の播まきは、いつも八十八夜一週間前位ある。
この種をまく時、水口祭りをする。苗代の入水口に、
ニハトクの木に苗取山荒神牛王の札を
三角にたヽんではさみたるものと、
カラス幣と云つて、
正月神棚に餅をあげだしき紙を小さく四角に切つて
竹、又はカヤにはさんたるもの十二本、月の数程こしらへ、
六本は神棚の田の神様に、残り六本は水口に立てる。
そして、櫻の花などをあげ、種籾燒米を供へて祭るのである。
山吹は實がならないとて忌む。
 又、苗代には苗見竹と云つて細竹を眞中にたてる。
これは大昔、稲荷様が天笠から稲(いね)穗をくわいて来て蒔いて、
他の者に荒らされない様に標を立てヽ、ナイナイと云つておいた。
それで苗(ナイ)と云ひ、竹を苗見竹を云ふ。
田植の時、この竹を二つに折つて、
長さが両方同じな時は思ひ事、萬事叶ふなとヽ云つて居る。

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稲の種籾を播く 水口祭り その1

2007年04月24日 | 歴史
私の家にも、稲の苗が届けられ、
庭先の温室のなかで、今、その苗が育っている。
もう少しすると、田植えだ。

大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)の
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)には、
稲の種籾(たねもみ)を播(ま)く際に行う
「水口祭り」についても記載がある。
旧暦3月の記事だ。

是月 籾種ヲ蒔キ、水口ヲ祭ルニ、
正月神棚ノかいしき紙ヲトリオキ、
三角ニ疊ミ、萱莖(かやくき)ヲ割リテ插ミ、
櫻、ツバキ、蹢躅(つつじ)類ノ花ヲ添ヘ、水口ニサス。
其下ヘ焼米少シヅヽ三處ニ供フ。
焼米トイフハ種籾ヲ蒸シ乾シテ、舂クモノナリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦3月 稲の種籾(たねもみ)を播き、水口祭りを行う。
その際には、正月に神棚にお供えをする際に用いた懐敷き紙を取っておき、
それを三角に折り、萱茎を割ったものに挟み、
それ田の水口にさし立てる。
また、その際にはサクラやツツジなどの花も一緒にさす。
そして、さらにそれらの元の方に、
焼米を少しずつ、三か所にお供えする。
焼米というのは種籾を蒸し、乾して、搗いたものである。

このような「水口祭り」の習いも、
今ではほとんど見られなくなってしまった。
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磐城平城下の馬市 その5

2007年04月23日 | 歴史
江戸時代、磐城平城下で開かれていた馬市について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかに、
次のようにも書き記している。

馬ハ平頸ノ髪ヲ薙ズ、長ク両方ヘ垂ルヽヲ文飾(かざり)トス。
薙レバ、馬ノ價減ズ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

馬はうなじの毛を切らず、伸び放題にし、
うなじの両サイドに長く垂らしておく。
これが一つの飾りとなっており、毛を切ってしまうと、
馬の値段が下がってしまう。

このようなことがあったのですね・・・。
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磐城平城下の馬市 その4

2007年04月22日 | 歴史
江戸時代、大変な盛況のうちに催されていた磐城平城下の馬市について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)に、
次のようにも書いている。

城下市日ニハ、遠近四方ヨリ来リ、
輻(あつま)ル馬ヲ牽クモノ多シ。
城下ニ入ル五道アリ。
或人、一日巳刻ヨリ午刻迄、一方ノ馬数ヲ数ヘシニ、
七百六十三アリシト。
五道、朝ヨリノ馬数、推シテ知ルベシ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

磐城平城下で市が開催される日には、
遠近、四方から多くの人々がやって来るが、
その際、馬を牽いてやって来る人も多い。
磐城平の城下に通じる道は5本あるが、
市が開かれる日、ある人が午前10時頃から正午までの間、
一つの道で、そこを通る馬を数えたところ、
その数は763頭にのぼったという。
道は5本あるわけで、
実に多くの馬が市にやって来ていたことが知れるというものだ。
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磐城平城下の馬市 その3

2007年04月21日 | 歴史
江戸時代に磐城平城下で開かれていた馬市について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は、
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)の中に、
次のようにも書き記している。

暑天ニハ馬ニ負セタル物ヲ賣終レバ、
鞍ヲ卸シ、松原廣小路ニ幾ラモ放シ置、
馬奴ハ市用ヲ辨シ、或ハ茶店ニ休息ス。
馬ハ馬奴ノ来ル迄、草ヲ食ヒ、自由ニ起臥シ、友馬ト齧蹄スル事ナシ。
偶、物ニ驚キ、驅出ス事アリ。
馬奴来リテ馬見ヘザレバ、鞍ヲ脊負、彼此尋テ牽帰ル。
常ノ事トシテ驚キ騒ガズ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

暑い盛り、馬に背負わせてきた荷を売りさばき終わると、
馬奴は馬の鞍を外し、松原広小路に馬を放す。
馬奴はその後、市で買い物をしたり、茶店で休息したりする。
その間、馬は草を食べ、寝たり、起きたりとのんびりと過ごす。
馬同士が喧嘩をしたりすることはなく、たまに馬が何かに驚き、
駆け出すことがあるくらいだ。
馬奴が馬を放した場所に戻って来て、
馬が見つからない時には、鞍を肩に掛け、
馬の行方を捜し、牽き帰る。
馬の所在がわからなくなることはよくあることで、
決して騒ぎ立てたりはしない。
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磐城平城下の馬市 その2

2007年04月20日 | 歴史
かつて磐城平城下で開かれていた「馬市」について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも書き記している。

市ニ出ル馬奴(うまやっこ)一人ニテ二、三疋(ひき)ヲ併セ牽ク。
女子ノ馬奴モアリ。多クハ牝馬ナリ。
山ツキ村々多ク馬ヲ産ス。
生テ十日程過レバ、二、三里ノ所、市ニ出ルニ、
放駒ニテ、母馬ニツキ来ル。母子、相離レザル故ナリ。
子馬ヲとうねトイフ。當年トイフ事カ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

馬市にやって来る馬奴は1人で2、3頭の馬を牽いてくる。
馬奴には女性もいる。馬市に出されるのはほとんどがメス馬である。
多くの山間の村々が馬を育て、市に出す。
馬は生まれて10日もすれば、
8から12キロメートルほどの距離を歩いて市まで来る。
子馬は紐で繋がれることはなく、母馬に寄り添うようにしてやって来る。
母馬と子馬は互いに離れようとしない。
その年に生まれた馬を「とうね」と呼ぶが、
これは「当年」に由来しているものであろうか。


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