『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦12月  かやで

2008年04月22日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「萱手(かやで)」についての記述である。

屋根ヲ葺ク者ヲかやでトイフ。
たちつけヲ着、一尺餘ノ小脇指、
鍔イカニモ小サク、銅拵ヘナルヲサス。
是ヲ野差トイフ。竹割リ、縄キリ、之ヲ用ユ。鎌ハツカハズ。
葺口ヲタヽキ揃ユル板ヲがんぎトイフ。
たちつけトハ、山袴ニテ、又、かるさんトモイフ。
村民ノ山野ニ出ルモ、皆之ヲ着、田畠耕鋤ニモ着ル者多シ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

屋根の萱葺きを仕事を生業とする者のことを
「萱手(かやで)」という。
萱手は「たちつけ」という作業着を着、
長さ30センチメートルほどの小さな刀で、
銅で作られた小さな鍔が付いているものを腰に差す。
これを「野差(のざし)」といい、竹を割ったり、
縄を切ったりする際に用いる。鎌は使わない。
また、屋根に葺いた萱を平に揃える時には
「がんぎ」という板を使う。
「たちつけ」というのは、「山袴」のことで、
「かるさん」ともいわれる。
村の人たちが山野で作業をする際や
田畑を耕す際にも着用することが多い。
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陰暦12月  強い北西の風にそなえた家造り

2008年04月18日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。

冬春ノ間、西北ノ風烈シク、
或ハ屋根ヲ吹剥キ、塀穡ヲ吹倒スアリ。
故ニ宅地ノ西北ニハ多ク樹木ヲ植テ、之ヲ防グ。
之ヲ家圍(ヤガコヒ)トイフ。
家屋ノ構造、破風作ヲナサズ。
大概、茅屋根ニテ四方葺ツメニシ、
上ニ烟突(ダ)シヲアグル。
ぐしニハ芝塊(シバグレ)ヲ載ス。
ぐしトハ屋棟ヲイフ。風ニ破レヌ為メナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

冬から春にかけ、いわき地域では西北の風が激しく吹き、
屋根を吹き飛ばされたり、
塀や生垣を吹き倒されたりすることがある。
そのため、家々では屋敷の西北側にたくさんの樹木を植え、風を防ぐ。
これを家囲いという。
また、家の屋根も、破風作りにはせず、
茅葺き屋根の全てを茅で葺き詰め、屋根の上に煙出しを設ける。
屋根のてっぺんの「ぐし」には芝の塊を載せる。
これも強く吹き付ける風に対するそなえである。
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陰暦12月19日  十九夜講

2008年04月14日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「十九夜講」についてのものだ。

十九日 十九夜念佛トイフアリ。
女人ノ罪障ヲ滅除スル為メトテ、
毎月十九夜、米銭ヲ持寄リ、酒食ヲ饗シ、
歌念佛ニくどきヲ入レ、和讃ナド云フモノヽ如ク唱ヘ、
奇妙頂来十九夜のいわれを悉しく尋ぬれば
南無阿弥陀佛云々ト、
サモ感歎悲哀ノ情アル如クニ聞ユル唱方ナリ。
毎月、宿ハ順還ナリ。
懸銭アリ。之ヲ積ンデ、地藏、
又ハ如意輪観音ノ石像ナドヲ立ルトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月19日 十九夜念仏(十九夜講)が行われる。
女性の罪や穢れを除くため、
毎月十九日の夜に行われている。
この夜、女性たちは米やお金を持ち寄り、
酒や食事を摂り、
また、歌念仏に「くどき」といわれるものを交え、
和讃のような節を付けて唱える。
歌詞は「奇妙頂来(きみょうちょうらい)、十九夜の、
いわれを悉(くわ)しく尋ぬれば、南無阿弥陀仏云々」
というもので、うら悲しい旋律である。
十九夜講は12月だけではなく、毎月行われ、
当番の宿は順巡りになっている。
また、月々、お金を積み立て、
地蔵や如意輪観音の石像などを建立したりもする。

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陰暦12月  寒念仏

2008年04月03日 | 歴史
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「寒念仏」についてのものだ。

寒念佛アリ。同行ヲ催シ、村里ヲ廻ル。
若輩淳蕐ノ同行ハ、鉦ニ笛、太皷、三味線ヲイル。
是ハ佛像、堂宇建立、修覆ノ為メニ米銭ヲ集ムルナリ。
又、七、八歳ヨリ十二歳位ノ子供、寒夜ニ鉦打鳴シ、
其里近ク念佛シ廻リ、夜更(ヨフケ)帰リ、集リテ、
受タル米ヲ粥ニ煮ル。
是ハ小兒ノ游戯、寒念佛ニ倣フナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月には、寒念仏が催される。
多くの人たちが集団になり、村々を巡り歩く。
青年たちは鉦や笛、太鼓、三味線を奏でながら、村々を巡る。
これは仏像の造営、修理や、
お寺やお堂の建立、修理に必要な資金を
集めるために行われるものである。
また、7、8歳から12歳ぐらいの子どもたちも、
鉦を打ち鳴らし、村内を念仏を唱えながら廻り、
夜更けに、寄進された米を煮て、粥にして食べる。
これは子どもたちの楽しみごとになっており、
本当の寒念仏ではなく、
それを真似たものである。
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