『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦10月9日 刈上げ祝い 田の神餅開き

2007年11月19日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月9日の項には、
次のような記述があります。「刈上げ祝い」についてのものです。

九日 刈上ゲ祝ナリ。稲ヲ刈収メタル祝トテ、餅ヲ搗キ、熨斗餅ヲ田ノ神ヘ供シ、親類、合壁互ニ贈答ス。家々ノ杵声、節季、正月ニ異ラズ。日ヲ過テ、田ノ神餅ノヒラキトテ、一門互ニ招キアフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦10月9日 この日に「刈上げ祝」が行われる。
稲を無事収穫出来たことを祝い、餅を搗き、
熨斗餅を作り、田の神様にお供えし、
親類や隣近所にも贈る。
家々で餅を搗く賑やかさは、
節季の祝いや正月の際のそれに劣らない。
さらに数日後、「田の神餅の開き」ということで、
親戚の者同士が集まり、再び、お祝いをする。
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旧暦10月1日 十夜念仏

2007年11月13日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月1日の項には、
次のような記述があります。

朔日或ハ六日ヨリ十日間、浄土宗十夜念佛アリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦10月1日、あるいは10月6日から10日間、
浄土宗の寺では、十夜念仏が行われる。


ところで、「十夜念仏」という言葉を辞書で調べると、
次のような説明がされています。

浄土宗の寺で、
旧暦10月5日の夜半から15日の朝までの10昼夜の間、
絶えず念仏を唱える行事。
現在は10月12日の夜から15日の早朝までの
3昼夜に短縮されている。
京都の真如堂のものが有名。
お十夜、十夜法要ともいう。

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旧暦9月 カヤの実、ヒウビの実取り

2007年11月09日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。

村里宅邉ニハ多ク榧(カヤ)及ビひうびヲ植ヘテ家圍(ヤガコヒ)トス。其實ヲ拾フモ是月ナリ。榧實ハ一處ニ集堆シ、莚(ムシロ)薦(コモ)ヲ覆ヒ、ひうびハ坎ヲ穿チ、莚席ヲ上下ニ覆フ。之ヲ「ねせる」トイフ。外殻ノ腐爛スル後ヲ待、竹籠ニ内(イ)レ、溪水ニ洗ヒ、敗穀ヲ流シ去リ、晴日ニ暴乾シテ貯フ。ひうびハ岩城ノ土ニテ、他方ニ希ナリ。窄シテ油ヲ採ル。燈ヲ點シ、極メテ明カ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

いわきの各村の家々では
屋敷の囲いにカヤやヒウビを植えていることが多い。
旧暦の9月になると、これらの木の実を拾う。
カヤの実は一か所に集め、筵やこもを被せ、
また、ヒウビは実に穴をあけ、筵で包む。
これを「ねせる」という。
しばらくすると、外側の硬い殻が腐る。
その後、それを竹籠に入れ、清流にさらし、
腐った外側の穀を流し除き、
次にそれを天日で乾かし、貯蔵する。
ヒウビはいわき地域の名産で、他ではあまり見られない。
これを絞り、油を取り、明かりに用いるが、とても明るい。

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旧暦9月  山梨拾い  

2007年11月02日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。山梨の収穫についてのものです。

楢葉山中ニテハ、栗ヲ拾フ後ニ山梨子モ拾フ事ナリ。一人一日ノ得ル所、概ネ二、三斗ニ下ラズ。或ハ細刻シ、或ハ舂碎シテ乾貯ス。之ヲ水ニ浸ス、一宿。其水ヲ以テ酢ニ代フ、味極メテ佳ナリ。特ニ獸肉ヲ生食スルニ用ヒテ氣味ノ透徹スルヲ覚ユルモノナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

楢葉地域の山中では、栗拾いの後に山梨も拾う。
1人1日で、およそ40ℓほどの山梨を拾う。
収穫した山梨は細かく刻むか、臼で砕いた後、
乾かし、貯蔵する。
また、それを食べる時には水一晩、水に浸して戻す。
その際、山梨を浸した水は酢の代用品にもなる。
味わいは格別である。
特に獣の肉を生食する際には風味を格段引き立てる。

山梨の実は、私も食べたことがありますが、
木からを取った生のものは、
ガリガリと硬くて、甘味もあまりなく、
「美味い」とは言いがたいものでした。

昔の人々は、それを乾燥させ、貯蔵し、
それから、食べていたようですね。
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旧暦9月 栗拾い

2007年11月01日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。
栗拾いについてのものです。

是月ハ果實類ノ採拾多キ中ニ、栗拾ヒヲ第一トス。磐城山中、栗樹多シ。栗毬(クリノイガ)罅折(エミ)、其子ヲ落トスヤ、村里ノ老幼男女、毎戸出デヽ拾フ。深山幽谷ノ間、歌唱相応ジ、談笑相聞フ。一人一日ノ拾フ所、少キモノ壱斗左右、多キモノハ四斗前後。或ハ一把ノ團茅(コヤ)ヲ山中ニ假設シ、旬日ノ間、此ニ寝食シテ捃拾スルモノアリ。之ヲ貯フルニ蒸籠(セイロウ)ニテ湯蒸シ、庭上ニ鋪シ、晴日ニ暴乾シ、藁俵ニ納メ、爐上ノ屋梁ニ上ス。十数俵ヲ貯ルモノアリ。亦、凶荒豫備ノ一助ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月には、さまざまな果実の収穫が行われる。
なかでも栗拾いは特筆されるべきものだ。
いわき地域の山中には、栗の木が多い。
栗のイガが割れ、栗の実が地面に落ちる頃合を見計らい、
村里の人々は総出で栗拾いをする。
深い山の中や谷の奥深くまで、人々が分け入り、
歌を歌い、楽しげに言葉を交わしながら栗拾いをする。
1人が1日に拾う栗の量は少ない人でも18ℓぐらい、
多い人は70ℓほどの栗の実を拾う。
なかには山の中に仮設の小屋を作り、
そこで寝食をしながら栗を拾う者もいる。
拾った栗を貯蔵するには、まず、蒸籠で蒸し、
蒸しあがったものを庭に並べて乾燥させ、
その後、藁俵に入れ、囲炉裏の上、家の梁に上げ、貯蔵する。
10数俵の栗を貯蔵しておく家もある。
飢饉や凶作などの際の食糧として、
栗は大変役に立つものである。
コメント (2)
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