『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦9月29日 藤原の熊野三社権現祭礼

2007年10月29日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月29日の項には、次のような記述があります。

二十九日 城南三里、中藤原村熊野三社権現ノ例祭ナリ。
社ハ延暦二年、紀州熊野三所ヲ勧請セシモノナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月29日
磐城平城の南12キロメートル、常磐藤原の熊野三社権現の例祭が行われる。
この神社は延暦2(783)年に紀州の熊野三所を勧請し、ここにお祀りしたものだと伝えられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月24、25日 花園権現祭礼 子だち参り

2007年10月26日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月24、25日の項には、
次のような記述があります。
草野の花園神社の祭礼についての記事です。

廿四日 廿五日 城東一里三甼、下神谷村ノ花園権現例祭ナリ。文禄元年、常州車城主、好間三郎兵衛、常州花園山ヨリ勧請スル所。二歳ノ小兒、こだち參りトテ、四方ヨリ雲集ス。二歳ノ時、事故アリ、こだち參りセザレバ、四歳ノ時ニ參詣スル事ナリ。此こだち參りヲ小兒ノ祝儀トシ、一種ノ風習アリ。必ズ酒肴ヲ携ヘ、なげ餅、まき銭ヲナス事ナリ。なげ餅、まき銭ハ、宅ヲ出ヅル時ニ壱回、鎌田川ヲ過グル者ハ橋側ニテ一回、祠下ト都合三回ナリ。貧冨ニ應ジ、餅ヲ搗クノ多少、樽肴ノ美悪ハアルベシト雖モ、其用意ハ皆同一ナリ。祠壇ノ下ニテなげ餅、まき銭ヲ終リタル後、祠前ノ人家ヲ借リ、樽肴ヲ開キ祝フ。帰リニハ多ク熟柿ヲ買ヒ取リ、祝儀ヲ遣ラレタル家ヘ土産ニスルヲ例トス。道筋ニ村童、縄ヲ張リ、參詣人ヲ要シ、祝儀ト唱ヘ、銭ヲ索ム。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

廿四日 廿五日
磐城平城の東4.3キロメートル、
下神谷村に鎮座する花園権現の例祭が行われる。
この神社は文禄元年、常州車城の城主、好間三郎兵衛が
常州の花園山から勧請したものである。
この日、2歳になった子どもたちは
「子だち参り」ということで、たくさんの参詣がある。
2歳の時に差し障りや事情があって、
「子だち参り」が出来なかった時には、
4歳の時に参詣する。
「子だち参り」というのは子どもの成長の祝いで、
一種の仕来りがある。
花園権現に参拝する際には、必ず酒やご馳走を持参し、
投げ餅、撒き銭を行う。
投げ餅、撒き銭は自宅を出発する時に1回、
鎌田川を渡る者は橋のたもとで1回、
花園権現の下で1回、合計3回行う。
貧富に応じ、餅の多少、酒やご馳走の良し悪しなどの違いはあるが、
すべての者がこのような準備をする。
神社での投げ餅、撒き銭が終わると、
参詣者たちは神社の近所の家を借り、
酒を飲み、ご馳走を食べ、お祝いをする。
帰りには熟し柿を買い求め、
祝儀をいただいた人たちへの土産にする。
道筋では土地の子どもたちが縄を張り、
通せんぼをし、参詣の人たちに
「ご祝儀をください、ご祝儀をください」
とお金をねだる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月 氏神祭り

2007年10月25日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。氏神祭りについての記述です。

是月 家(村)々ニ例日アリテ、氏神祭アリ。新穀ヲ神ニ奉ル。餅、強飯(コハメシ)ニ濁醪(ニゴリザケ)ヲ作リ、山伏ヲ請ジテ、宅地ノ小社ヲ祀ル。山伏、幣ヲキリカケテ勤行ス。是ヲ「御幣はき」トイフ。キルトイフ事ヲ忌ムトナリ。今日ハ某ノ家ノ御幣はきトテ、童男童女紙一枚ヅヽ持来リテ、小社ノ前ニ集ル。亭主ヨリむすびシタル強飯ヲ出シ與フ。各、之ヲ紙ニ受テ戴キ帰ル。神へ供ヘタル強飯ニハ米ノ粉ヲフリカケ、之ヲ烏ニ與フルナリ。童兒ドモ、おみさきおみさきト呼ベバ、烏集リ来ルナリ。是日、親族、近隣互ニ招キアヒ、酒食ヲ饗ス。客ノ酔ヘルヲ馳走トシテ、酒ヲ強ル事ナリ。家々扶得醉人帰ノ詩、此方ノ風俗ニテモ思ヒヤラレズ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月
各家、もしくは各村で決められた日があって、
その日に氏神祭りが行われる。
新米を神に供え、餅を搗き、
おこわを炊き、濁り酒をつくる。
また、山伏に祈祷を依頼し、
敷地内にある氏神様でお祭りをする。
山伏は幣を細かく切って、それをふり掛けるが、
これを「御幣はき」という。
「切る」という言葉を忌み嫌ってのことだ。
この時、近所の子どもたちが紙を一枚ずつ持って集まり、
家の人からおこわのお結びをもらう。
また、氏神様に供えられたおこわには
米の粉がふり掛けられ、これがカラスに与えられる。
子どもたちが「御御先、御御先」と大きな声で叫ぶと、
どこからかカラスが集まってくる。
さらにこの日には、
親族や近隣の人たちが互いに招きあい、
お酒やご馳走を振舞い合う。お酒を無理に勧め、
それで泥酔する人たちが多く出る。
いわきの風俗を詠んだ漢詩「家々扶得醉人帰ノ詩」にある様子とは
随分違うような気がする。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月19日 真先稲荷明神例祭 

2007年10月22日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月19日の項には
次のような記述があります。

十九日 城下ニテハ真先稲荷明神ノ例祭ナリ。真先ハ長橋惣門ノ内ニアリ。或ハ末崎ニ作ル。尼子橋ノ守護神ナリトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月19日
磐城平城下の真先稲荷明神で例祭が行われる。
真先稲荷明神は
磐城平城下への南西からの入り口に当たる
長橋惣門の内側にあり、
「末崎」という漢字で書く場合もある。
尼子橋の守護神である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月13日 上高久 大日堂の牛石 

2007年10月19日 | 歴史
今回もまた、
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月13日の項には
次のような記述があります。いわき市平高久の神下にある大日堂の「牛石」にまつわるものです。

城ノ巽(たつみ)一里半許、上久村ニ神下 (かなおり)大日堂アリ。是日、縁日ニテ參詣アリ。仁王門ノ前、右ノ方ニ牛石ト名ヅクル大石アリ。横九尺餘、五尺許。色黒ク、形蹲牛ノ如シ。兒童、指頭ニテ之ヲ推スニ、少シク動ク。力量アル人、多勢力ヲ極メテ推スモ、其動ク所ハ小童指頭ノ推スニ異ナラズト云フ。余、曾テ此堂ヲ過ギシ時、試ニ推スニ、毫モ動カズ。顧フニ、大石ノ力ヲ用ヒズシテ動クハ、大概、新井甼ノ團子石ノ類ニテ、此石モ昔時ハ下ニ相受クル石アリ。受クル處寸許ノ罅隙アリテ、搖兀ノ地ヲ為セシニ、其脚埋リ、其罅塞リテ、搖ガヌ事トナリシカ。然ラザレバ、例ノ誇誕ニテ、大日如来ノ乗ル牛ノ石ニ化セシモノユヘニ動クト虚傳セシモノナラン。仁王門ノ内、左ノ林中ニ荷鞍石アリ。亦、形ヲ以テ名クルモノナリ。當時、五律一首ヲ賦シ、遊ヲ紀ス。化石牛猶動、欺人魅欲言ノ一聯アリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月13日
磐城平城の南東6キロメートル、
上高久の神下に大日堂がある。
この日が縁日で、多くの参詣人が訪れる。
大日堂の仁王門の手前、右の方に「牛石」いう大きな石がある。
横幅は3メートルぐらいで、高さは1.5メートルぐらいである。
色は黒く、形はうずくまった牛のようである。
子どもが指先でこの石を押すと、わずかに動く。
力のある大人が力を込めて押しても、
同じようにわずかに動くだけである。
私(大須賀筠軒)も、以前、この御堂に行き、
試しに牛石を押してみたが、
その時には全く動かなかった。
大きな石が動くというのは、多分、
てこの原理によるものだろうと思われる。
石がグラグラと動いていたのは、
この石の下の方にてこの支点となる小さな石があって、
それで動いていたのだろう。
ところが、いつしか、隙間に土が入り込み、
動かなくなってしまったのだろう。
もし、そうでないというのであれば、
元々、動かなかったものを「大日如来の牛だ」などと言い触らし、
石が動くと偽りの話を作ったのだろう
また、仁王門の内側、左の林の中に「荷鞍石」という石もあるが、
これも石のかたちから名づけられたものであろう。
なお、牛石を見に行った際、私は
「化石牛猶動 欺人魅欲言」
という漢詩の一節をものにした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月13日 住吉神社の流鏑馬  

2007年10月15日 | 歴史
今回もまた、
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月13日の項には
次のような記述があります。

十三日 城南二里半、住吉村ノ住吉神社ニ流鏑馬ノ神事アリ。的三段ニアリ。郷人相勤ム。諸人參詣雲集ス。賣物ハ飯野八幡宮ノ祭日ノ如シ。此社ハ延喜式内磐城七座ノ一ニシテ、祭神ハ摂州住吉ノ神ト同體ナリ。現時ノ社殿、幣殿、拜殿、神楽殿。寛文十八年、内藤兵部少輔政晴ノ造營ナリ。境内千七百九十三坪ノ除地アリ。社ノ南側ニ老銀杏樹ノ殯出セルアリ。其南ニ森磈大石ノ一山丘ヲ為スアリ。松樹翠ヲ交ユ。古昔ハ社殿丘上ニアリシヲ、今ノ地ニ遷ストイフ。星見池アリ。生根橋アリ。橋ハ老櫻樹ノ根、横ニ小溝ヲ超ヘ、彼岸ノ地ニ入ル。圍リ四尺余、之ヲ渡リ、神殿ニ向フ、恰モ獨木橋ノ如シ。鐘樓ニ天文庚子ノ鋳鐘アリシガ、文政間、冶鎔シテ之ヲ新ニス。最モ惜ムベシ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月13日
磐城平城の南、約10キロメートルのところに鎮座する
住吉村の住吉神社で流鏑馬が行われる。
騎手(射手)が射る的は三つある。
騎手(射手)は土地の者が勤める。
多くの人たちが参詣に訪れる。
露店などで売っているものは、
平の飯野八幡宮のものと同じである。
住吉社は「延喜式」に記載がある「磐城七座」の一つで、
祭神は摂津の住吉神である。
現在の社殿や幣殿、拜殿、神楽殿は、
寛文18年、内藤兵部少輔政晴の造営によるものである。
境内に1,793坪の除地がある。
神社の南側にイチョウの大木がある。
そして、その南には山のように大きな石があり、
風光明媚な場所となっている。
昔は神社の社殿は
この山のような大石の上にあったという。
また、星見池という池もあり、
そこに生根橋という橋が架かっている。
橋は桜の大木の根でできている。
周りが1.2メートルくらいで、
この橋を渡って神殿にお参りをする。
丸木橋のようなものだ。
神社の鐘楼には、
かつて戦国時代の天文庚子の年に造られた鐘があったが、
江戸時代の文政年間に、その鐘が鋳潰され、
新しい鐘が造られた。
その鐘に刻まれていたであろう鋳造の経緯などの歴史記録が残されずに
鋳潰されてしまったのは、本当に残念である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月10日 鹿島明神例祭 

2007年10月14日 | 歴史
今回もまた、
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月10日の項には
次のような記述があります。

十日 城南一里廿四甼、上矢田村ニ鹿島明神ノ例祭アリ。祭神ハ三代實録、貞觀八年ニ載スル所ノ常陸鹿島大神ノ苗裔神。磐城十一社ノ一ナリ。其餘、鹿島小社各村ニアリト雖モ、今皆辨ジ難シ。景雲二年建立、即延喜式内磐城七座ノ一ナリ。社北ニ千本ノ松原アリ。傳ヘテ、鹿島、香取、坂戸ノ三神降臨アリシ時、馬ニ秣カヒシ處ナリトテ草飼ノ千本松トイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月10日
磐城平城の南6.5㌔、上矢田村に鎮座する鹿島明神で
例祭が行われる。
祭神は『三代実録』の貞観8(866)年の項に記載があるように
常陸の鹿島大神の流れを汲むものである。
この鹿島明神は景雲2(768)年の建立で、
「磐城十一社」の一つであり、
また、『延喜式』に記載がある「磐城七社」の一つでもある。
ところで、
いわき地域にはたくさんの集落に鹿島神社が祭られているが、
その来歴についてはわからないところが多い。
鹿島明神の北側には、
たくさんの松が生えている原があるが、
神代の昔、鹿島神、香取神、坂戸神の3柱の神々が
降臨になられた際、
ここで馬に草を食べさせたと伝えられ、
「草飼の千本松」と言われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月9日 内郷 兜神社の祭礼  

2007年10月13日 | 歴史
今回もまた、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合い願います。

『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に記録されています。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月9日の項には
次のような記述があります。

是日 厩村兜明神ノ例祭ナリ。
相傳フ、義家東征、此ニ宿シ、
厩ヲタテラレシヨリ村ノ名トナルト。
此ニ鹿島ノ神ヲ勧請シタル社アリシハ、
義家ノ兜ヲ奉納セラレシヨリ兜明神トイフトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月9日
内郷の御厩(みまや)に鎮座する兜明神で例祭が行われる。
伝えでは、源義家が東国平定の際、
この地に宿泊し、馬屋を設けたことが
「厩」という村の名の起源であるとされている。
また、この地に鹿島神を祀る神社があるが、
義家が兜を奉納したという故事に由来し、
人々は「兜明神」と呼び習わしている。


本文の内容と掲載されている写真は関係がありません。
因みに、写真は山形の月山で撮影したものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧暦9月9日 重陽の節句 

2007年10月12日 | 歴史
今回もまた
大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
紐解くこととします。
『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけての
いわき地域の人々の暮らしや民俗などが
極めて丹念に書かれています。

さて、今回からは『磐城誌料歳時民俗記』の9月(旧暦)の項を
読み進んでいきます。
旧暦9月9日の項には次のような記述があります。

九日 重陽節供、他方ト異ナラズ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月9日
この日は重陽の節句である。
いわきでも他の地方と同様のことが行われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋彼岸 団子 牡丹餅 夜業 

2007年10月10日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
紐解くこととする。
『磐城誌料歳時民俗記』には、
江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の人々の暮らしや
民俗などが極めて丹念に書かれている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の彼岸(秋)の項には、次のような記述がある。

彼岸 圑子、牡丹餻等ヲ製シ、寺ニ詣デ、僧ニ施ス事、春ノ彼岸ニ異ナラズ。農家ニテハ彼岸ノぼたもちヲ喰フヨリ後、必ズ夜業ヲ始ムルヲ常例トス。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

彼岸
団子や牡丹餅(ぼたもち)などをつくり、お寺の詣で、僧侶に振る舞うことは、春の彼岸と同じだ。農家では彼岸を過ぎると、どこの家でも夜なべ仕事が始まる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする