天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の
陰暦1月6日の項には、
次のような記述がある。
六日 僧侶、神主、称、山伏等ノ年始日ナリ。
是日ヲ六日年越トイフ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
陰暦1月6日 この日は僧侶や神主、禰宜、山伏などが
年始のあいさつにまわる日である。
また、この日を「六日年越」ともいう。
「六日年越」というのは、
「七日正月」に関連する言葉である。
「七日正月」というのは、
1月7日が「人日(じんじつ)の節句」にあたり、
一年最初の節句であり、
それを祝って、この日を
「七日正月」と呼ぶようになったとされている。
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の
陰暦1月6日の項には、
次のような記述がある。
六日 僧侶、神主、称、山伏等ノ年始日ナリ。
是日ヲ六日年越トイフ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
陰暦1月6日 この日は僧侶や神主、禰宜、山伏などが
年始のあいさつにまわる日である。
また、この日を「六日年越」ともいう。
「六日年越」というのは、
「七日正月」に関連する言葉である。
「七日正月」というのは、
1月7日が「人日(じんじつ)の節句」にあたり、
一年最初の節句であり、
それを祝って、この日を
「七日正月」と呼ぶようになったとされている。