『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

いわき市内郷の笑堂観音

2006年09月24日 | 伝説
磐城4観音の1つに数えられ、
また、磐城33観音の第3番札所にあたる内郷の北郷観音は別名、
笑(童)堂観音とも呼ばれている。
観音堂が建てられた際の面白いエピソードによって、
このように呼ばれるようになったという。

大須賀筠軒(1841年~1912年)の『磐城誌料歳時民俗記』には、
そのエピソードが次のように書かれている。

磐城四観音ト称スルハ、
第一番、平北目、如意輪觀音(七月二十日ノ条ニ詳カ)。
第二番ハ城南半里許、上荒川村藏勝寺、天津観音ニテ、
大同元年、一大師ノ開創、手刻ナリ。堂領御朱印五石アリ。
第三番ハ石森觀音、
第四番ハ城南半里許、北郷下綴村ノ童堂觀音ナリ。
相傳フ、童子戯ニ沙土ヲ以テ佛塔ヲ作リシヨリ起ル。故ニ童堂トイフト。
或ハ云フ、異人来集、一夜ノ中ニ此堂ヲ經營ス。
天、将ニ明ナントスル時、天井板一枚ヲ張ノコセシトテ大笑シテ去ル。
故ニ笑堂トイフト。
佛宇畧記ニハ、大同元年、一ノ開創、手刻トアリ。
三十三番第三番ノ札所ナリ。
              『磐城誌料歳時民俗記』

この引用部分では、まず、「磐城四観音」(北目の如意輪観音、
上荒川の天津観音、四ツ波の石森観音、下綴の童(笑)堂観音)の紹介があり、
それに続けて、童(笑)堂観音のエピソードが紹介されている。
それによれば、子どもが戯れに作った仏塔が、
この観音のもとになっているので、「童堂」と呼ばれるようになったとする説と、
異国の人たちがやって来て、一夜のうちにこの観音堂を造営し終え、
夜明け前に、「出来上がったぞ、完成したぞ」と喜んでいたが、
天井板を一枚、張り忘れていたことに気づき、皆で大笑いをし、
そのため「笑堂」を呼ばれるようになったとする説の2つを紹介している。


コメント (1)
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