『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

いわきの十九夜講 十九夜和讃 

2006年10月19日 | 伝説
高木誠一は
十九夜講の際に唱えられる「釘念仏」「血の池和讃」「十九夜和讃」
という三つの念仏和讃の歌詞も紹介している。
今回は、そのうちの「十九夜和讃」を紹介する。

十九夜和讃
帰命頂礼阿彌陀尊 一年たねんうち捨てゝ 
此十九夜に出づる身は 阿彌陀の十九の利益あり
先づ一番の利益には 迷土におもむく罪人も 老若男女のきらひなく
血の池地獄にのがれなし 皆これ女は罪ふかし 
がうの虫のなく涙 八万由旬の血の池に 浮びて上る岸もなし 
この十九夜に出であひて 念仏十遍唱ふれば 
十万だんの土となり もうしうめるととき給ふ 
二番の利益には 罪業深き父母も 或は子孫に至るまで 
この十九夜に出であひて 念仏申す輩は 残らずうかぶと説き給ふ 
三番の利益には三つの大河に向ふ時 善悪二つの橋かゝる 
善人通る眼には 橋の広さは十二間 黄金の橋とも見ゆるなり 
渡るとすれば業の風 しきりに吹いて渡られず 
あぼうらせつは くわしやくする 
橋の下を見てあれば 鰐と大蛇が浮びて 
落ちなば呑まんとまちかくる かほど罪科深くとも 
この十九夜に出であひて 唱ふる念仏の威徳には 
或は黄金の橋となり 或は弘誓の船となり たやすく通ると説き給ふ 
四番の利益には 死出の山路に至る時 剣の岳に登る共 
この念仏の一遍が ごしや車となり給ふ 南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏 
五番の利益には そうづかうばの関所にて この念仏の威徳には 
うばか眼には十悪人の罪人も 善人と見るととき給ふ 
六番の利益には 六道の辻に迷ふても 能き所に至ると説き給ふ 
七番の利益には閻魔の帳に至る時 この念仏の威徳には 
善人と見ると説き給ふ 南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏 
八番の利益には この十九夜の威徳には 
八かんやつねつゆれると説き給ふ 
九番の利益には この十九夜の威徳にて むげん奈落の苦をのがれ 
善所に至ると説き給ふ 
十番の利益には 其月罪をつくりても 
この十九夜の威徳にて 忽ち消ゆると説き給ふ 
十一番の利益には 娑婆の病の難をのがれ 迷土は善所へ至るなり 
十二番の利益には 十二月の其内の 万の災難のがれつゝ 
善所へ至ると説き給ふ 
十三番の利益には 娑婆の盗の難をのがれ 
浄土に至ると説き給ふ 
十四番の利益には 娑婆にて火難のがれつつ 
迷土は善所に至るなり 南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏 
十五番の利益には 今世の悪風のがれつつ 難なく通ると説き給ふ 
十六番の利益には いかなる大川渡るとも なんなく通るととき給ふ 
十七番の利益には 餓鬼道地獄の苦をのがれ 善所に至ると説き給ふ 
十八番の利益には 阿彌陀如来に手を引かれ 浄土に至ると説き給ふ 
十九番の利益には この十九夜に出であひて 
念仏申す輩は 二世安楽と説き給ふ 
皆これ二世のためなれば よくよく心に感念し 
念仏申し給ふべし かいく成仏南無阿彌陀仏 
此世は高きも賤しきも 定めなきは娑婆世界 
いざや皆々念仏に出て後生を願ふべし 
我身は物にたとふれば 露よりもろき身をもちて 
後生願はぬ輩は さてもふびん次第なり 
若きが先に立つもあり 古きがあとに立つもあり 
定めなきは娑婆世界 南無阿彌陀仏
          『石城北神谷誌』より
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いわきの十九夜講 血の池和讃

2006年10月16日 | 伝説
高木誠一は
十九夜講の際に唱えられる「釘念仏」「血の池和讃」「十九夜和讃」という
三つの念仏和讃の歌詞を紹介しているが、
今回は、そのうちの「血の池和讃」を紹介する。

血の池和讃
帰命頂礼観世音、十九夜十九夜多けれど、
酉の二月の十九日、十九夜念仏始まりて、
十九夜みだりに納め置き、血の池のがるる御念仏、
南無や大悲の観世音、ひらいて迷土へ参るをり、
八万由旬の血の池を、わづかな池と見て通る、
南無や大悲の観世音 七観音のその中に 
如意輪観音御慈悲にて 数多の女人の身代りに 
血の池地獄にお立ちあり 南無や大悲の観世音 
水火を清めて精進し あげかくこん行とりきりに 
南無大悲の観世音 我等下の其水は 
物にきこうほす其科は 天も地神も水神も 
十方世界の仏神も ゆるさせ給へやわれわれを
南無や大悲の観世音 あいみんのうじゆましまして
御願でしめしたび給へ 光明遍照十方世界
南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏
          『石城北神谷誌』より
   
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時間を旅するということ

2006年10月12日 | 伝説
普通、私たちが「旅」というと、
それは空間を移動することをイメージする。
よその土地を訪ねる、
見知らぬ土地を訪ねるということが「旅」であると考える。

でも、「時間」の流れの中を行く「旅」というのもあると思う。

自分が生まれ育った土地や、日々の暮らしを送っている地域の
歴史や伝説をたどり、
「時間」を「旅」するというのは、多くの楽しみを与えてくれる。
また、その「旅」は、自分自身を発見する「旅」になったりもする。

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釘念仏

2006年10月11日 | 伝説
高木誠一は、いわき市平北神谷の十九夜講の際に唱えられる「釘念仏」
「血の池和讃」「十九夜和讃」という三つの念仏和讃の歌詞も紹介している。
今回は、そのうちの「釘念仏」を紹介する。

 釘念仏
抑々、坂東下野の国、日光山の麓にて、有山寺の其内に、
釘念仏の縁起あり。
其身々々の科により、長さ八寸また四寸、一尺二寸の釘うてば、
かうべに五本、手に六本、胸と腹とに十四本、腰と足とに二十四本、
四十九本の釘うてば、其時亡者のなげく声、
娑婆に子供を持つ人は、卒塔婆を立てて弔へば、胸と腹との釘ぬける、
手の内供養で弔へば、腰と足との釘ぬける、
四十九本の釘の数、下は奈落の底までも、上は今世の空までも、
ひびき渡ると歎くなり。
                『石城北神谷誌』より

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十九夜講 高木誠一の記録

2006年10月09日 | 伝説
高木誠一(1887~1955年)の『石城北神谷誌』には、
十九夜講について、次のように記述されている。

十九夜講
二月と七月の十九日は十九夜様と称し、
村の女達各々一重箱の肴野菜などの煮しめたものを携えて寺に集る。
四、五銭位づつ出金(方言サシ)して、酒を買い、
一同、十九夜堂に詣でて御供えをなし、十九夜血の池念仏和讃を合誦して、
礼拝念仏し、安産を祈禱する。
次に、村内の子供の生れた家から安産の報賽として供えた投餅をまき、
各自、持寄つた肴を出しあつて、御酒を頂戴し、歓をつくし、
平生の疲れも忘れて、黄昏に家に帰るのである。
十九夜様は石に彫りつけた如意輪観音で、寛延二年に立てたものと、
安政四年三月十九日に立てたものとがある。
これは村中の女人講中が月々十九文づつ掛け金して立てたものであるという。
昔は、難産で死んだ人の供養には十九夜様の塔婆を立てたそうである。
わが地方では一般に十九夜を念ずる風があるが、
右の如く一年一度の所もあれば、年に数回集るもあり、
又、宿を定めて、順次廻り番に集る所もあつて一様でない。
我村では近年此講を利用して、農事指導員、小学校長など出張し来り、
農事改良、又は家庭教育の話をして、頗る好結果を収めている。
           『石城北神谷誌』より
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いわきの十九夜様

2006年10月04日 | 伝説
いわき市内では、「十九夜様」とか、
「十九夜講」と呼ばれる女性たちによる月待ち講が広く行なわれている。
これについて、大須賀筠軒(おおすが いんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』のなかに次のように記している。

十九日 十九夜念佛トイフアリ。
女人ノ罪障ヲ滅除スル為メトテ、
毎月十九夜、米銭ヲ持寄リ、酒食ヲ饗シ、
歌念佛ニくどきヲ入レ、和讃ナド云フモノヽ如ク唱ヘ、
奇妙頂来十九夜のいわれを悉しく尋ぬれば南無阿弥陀佛云々ト、
サモ感歎悲哀ノ情アル如クニ聞ユル唱方ナリ。毎月、宿ハ順還ナリ。
懸銭アリ。之ヲ積ンデ、地藏、又ハ如意輪観音ノ石像ナドヲ立ルトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

毎月の十九日、十九夜念仏という月待ち行事が行われる。
女性の罪穢れを除くため、毎月十九日の夜に、女性たちが米や銭を持ち寄り、
酒や食事を楽しみ、歌念仏に口説を交え、和讃などのように唱え、
「奇妙頂来、十九夜のいわれを悉しく尋ぬれば、南無阿弥陀仏」などと、
感嘆、悲哀の情を込め唱える。
毎月、宿は順番で代わる。
お金の積み立ても行い、この資金で地蔵や如意輪観音の石像などを建立する。
  

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中神谷の十九夜講

2006年10月02日 | 伝説
「十九夜講」という女性の講は、
多くの地域で行われているようだが、
いわき市平の中神谷(なかかべや)には、
十九夜講にまつわる次のような伝承が残されている。

慶長の頃、夏井武兵衛という武士が平中神谷字瀬戸に移り住み、居を構えた。
しばらくして、そこを若い男女の六部(「六十六部」の略。廻国巡礼者。
死後の冥福を祈るため、鉦を叩き、鈴を鳴らしながら、家々を廻り、銭を乞い歩いた)が訪れ、
「一晩の宿をお頼みいたします。どうぞ、泊めてください。
他の家々にもお願いしたのですが、応じてもらえませんでした」
と何度も何度も頭を下げる。
「それはお困りだろう」
と、武兵衛は一夜の宿を貸すこととした。
その夜、話を聞くと、その男女は親の仇を捜しながら、
六部として巡礼をしていることがわかり、
そして、武兵衛その人こそが、若い男女の親の仇であることが判明した。
ついには「尋常に勝負」ということになり、
武兵衛もそれを受けてたつことになった。
しかし、仇討ちは果たされず、その男女は返り討ちにされるという結末に。
武兵衛は男女の亡骸を丁重に葬ったが、その後、度々の怪奇に見舞われた。
ある夜、武兵衛が寝ていると、
囲炉裏の鉤を伝わって白蛇が屋根裏から降りてきて、
迫りかかるということもあった。
これはあの若い男女の祟りであろうと考えた武兵衛は、
剣八幡を祀って、男の霊を慰め、
また、女のためには十九夜様をお祀りし、毎年三月十五日に供養を行なった。
祠の近くには潔く散った男女を讃え、桜の木が植えられたが、
それが大正時代には古木大樹となり、
満開の折りには近郷近在の者たちが花見に訪れた。
また、その爛漫たる満開の花の様は、遠く閼伽井嶽からも眺望できたという。
しかし、昭和の初め、枯れてしまったという。
            『神谷村誌』より抄出

この話が、平の中神谷の「十九夜講」の始まりを伝えるものとなっている。


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