『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦8月13日 飯野八幡宮 塩垢離とり 

2007年09月30日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月13日の項には、次のような記述がある。

十三日 神事ニタヅサハル人馬、仁井田濱ニテ海水ニ浴ス。之ヲ塩垢離ト唱フ。神主ハ朔日ヨリ禁足ナリ。称、神子、流鏑馬役者、守護名代侍三人、一七日間籠リ堂ニテ別火。是日、三島八幡例祭。社ハ城東十甼餘、北白土村ニアリ。寉岡ノ神ヲ勧請ストイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦8月13日
旧暦8月15日に行われる飯野八幡宮の神事に携わる人々や馬が仁井田浜で塩垢離をとる。神主は旧暦8月1日より禁足。禰宜や神子、流鏑馬役者、守護名代の侍3人は7日間、籠り堂で、別火による食事をする。
また、この日、平北白土の三島八幡宮で例祭が行われる。三島八幡宮は磐城平城の東1キロメートル強のところに鎮座しており、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと言われている。
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旧暦8月9日 飯野八幡宮流鏑馬ならし 2 

2007年09月29日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月9日の項には、次のような記述がある。

九日 飯野八幡宮例祭前、流鏑馬ナラシノ藁的ヲ射ル。圓坐的ト唱フ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦8月9日 飯野八幡宮の祭り本番にそなえ、予行演習として流鏑馬が行われ、藁で作られた的(まと)に矢を射る。この的のことを「円坐的」という。

ちなみに、「円坐(円座)」というのは、稲藁や藺草(いぐさ)などで、渦巻き形に、丸く編んだ敷物のこと。もっとわかりやすく言えば、藁を丸く編んで作った座布団みたいなもののこと。
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旧暦8月1日 長源寺施餓鬼供養  

2007年09月26日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月朔日(ついたち 1日)の項には、次のような記述がある。

平胡麻澤長源寺ニ施餓鬼ノ執行アリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦8月1日には、平胡麻沢の長源寺で施餓鬼供養が行われる。

「施餓鬼」というのは、餓鬼道(「六道」の一つ。「六道」というのは地獄道、畜生道、餓鬼道、修羅道、人間道、天上道のこと)に落ち、飢餓や渇きに苦しむ無縁仏や生類のために読経や供養などを行うこと(「施餓鬼会」)とある。

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旧暦8月1日 飯野八幡宮流鏑馬ならし 

2007年09月25日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦8月朔日(ついたち 1日)の項には、次のような記述がある。

朔日 飯野八幡社前ニ流鏑馬ナラシノ走リ乗リアリ。是月十五日例祭ナルヲ以テナリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦8月1日 旧暦8月15日には飯野八幡宮の例祭が挙行されるが、その際には流鏑馬(やぶさめ)も行われる。それに向け、この日、飯野八幡宮で馬の馴らし乗りが行われる。

「流鏑馬」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ものの本には次のように書かれている。

騎射の一。綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、弓懸(ゆがけ)、弓籠手(ゆごて)、行縢(むかばき)を着けた狩り装束の射手が馬を走らせながら鏑矢(かぶらや)で木製方形の3つの的(まと)を射るもの。平安後期から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射三物(きしゃみつもの)の一。現在、各地の神社で神事として残る。
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旧暦7月30日 閼伽井嶽薬師縁日

2007年09月24日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月晦日(みそかび 月末)の項には、次のような記述がある。

晦日 小ノ月ナレバ廿九日 閼伽井嶽薬師ノ縁日ニテ、正月晦日ヨリ一層賑カナリ。近隣ハ勿論、白川、會津、二本松邉ヨリ二日路、三日路ヲカケ參詣スル者夥シ。別當常福寺ニ着クモノ千百人、庫裏、客殿ニ居餘リ、廊下、外縁マデ詰合テ通夜ス。寺ノ賄ヒ紛亂混雜大方ナラズ。坊ニ着カズ、堂下ニ通夜スルモノモ多シ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月30日(小の月であれば29日)は、閼伽井嶽薬師の縁日で、旧暦1月30日の縁日の際よりも人出が多い。近隣は勿論、遠く白川、会津、二本松のあたりからも2日、3日という日数をかけて参詣者がやって来る。別当寺である常福寺には千人もの人々が宿泊することになるのだが、庫裏や客殿だけでは収容しきれず、廊下や外縁、さらには縁の下まで人で溢れ、大変な喧騒となる。
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旧暦7月28日 平・材木町不動明王縁日    

2007年09月17日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月28日の項には、次のような記述がある。

廿八日 材木甼不動明王縁日。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月28日 いわき市平の材木町に鎮座する不動明王の縁日である。

因みに、ものの本を紐解くと、不動明王については「満面に怒りをあらわにし、右手に剣、左手に縄を持ち、炎に包まれた姿で岩の上に座っている。大日如来のもとで諸悪を撃退し、災害を除き、行者を守り、人々の願いをかなえる」と解説されている。

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旧暦7月27日 諏訪神社祭礼  

2007年09月14日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月27日の項には、次のような記述がある。いわき市内の諏訪神社の祭礼についてのものだが、特に小川の諏訪神社について詳しく書かれている。

廿七日 各處諏訪明神例祭。城北二里半、萩塩田二村ノ分界ニ神倉諏訪明神アリ。元亨二年小河入源義綱ノ勸請スル所ニシテ、小川郷ノ総鎮守ナリ。諸人群集、頗ル繁昌ナリ。是日、雨フレバ、八月十五日ノ八幡例祭ハ晴天ナリ。是日、晴ナレバ、八幡祭日ハ雨アリトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月27日 いわき市内各地の諏訪神社で祭礼が行われる。磐城平城の北10キロメートルのところ、高萩村と塩田村の境に諏訪神社が鎮座しているが、この神社は元亨2(1322)年に小川入源義綱が勧請したもので、小川地区の総鎮守になっており、祭礼の際には多くの人々が訪れる。
諏訪神社の祭りの日に雨が降れば、旧暦8月15日に催される八幡神社の祭りは晴れになり、逆に、諏訪神社の祭りの日が晴れれば、八幡神社の祭りは雨になると言い伝えられている。
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旧暦7月25日  松崎稲荷の祭礼  

2007年09月13日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月25日の項には、次のような記述がある。平の松崎稲荷の祭礼についてのものだ。

二十五日 松崎稲荷明神例祭。城ノ艮位ニ鎮坐スルヲ以テ鬼門稲荷トイフ。例シテ花火アリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月25日 松崎稲荷明神の例祭。松崎稲荷は磐城平城の東北の方角に鎮座しているため、鬼門稲荷とも呼ばれている。例年、花火が打ち上げられる。
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旧暦7月24日 わか・もりこ   

2007年09月12日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の中頃にかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。記述の内容は前回の「もりこ」や「わか」に関する事柄だ。

維新以来、巫覡妖妄、衆ヲ惑スモノヲ禁ゼラル。開明ノ美事ト謂フベシ。然ルニ、わか、もりこノ類、今猶ホ其業ヲ改メズ、潜カニ民間ニ往来セリ。大同小異ナレドモ、余ガ見聞ノ及ブ所ヲ記センニ、わか、もりこヲ信ズル者ノ家ニ疾病事故アレバ、直ニ之ニ就キ、祈祷ヲ請フ。女巫、一竹弓ヲ覆桶上ニ直キ小竹枝ヲ執リ、ク額上ニ捧ゲ、時々弦ヲ敲キ、之ヲ鳴シ、口ニ心經、觀音經ノ類ヲ唱ス。唱シ了ルコロ、竹枝自ラ顫動シ、女巫ノ相貌頓ニ變ズ。是ヲ神ノ乗リ移リシトイフ。卒然、説キ出シテ曰ク、是生靈ノ祟ナリ、是死灵ノ祟ナリ、或ハ犬馬ノ祟ナリ、神佛ヲ汚スノ罸ナリ。概ネ、請フ者ノ人ト為リヲ察シ、種々怪異ノ言ヲ發シ、先ズ其心ヲ聳動ス。然後、祈祷ノ方ヲ示ス。或ハ蜚語ヲ作為シ、某月大震アリ、某日暴風雨アリ、或ハ某人何ノ神ヲ祀ラズ、必ズ火災アリ、某家何ノ塔ヲ作ラズ、必ズ疫病アリナド云触ラシ、祈祷ヲ勧メ、私利ヲ射ル。詐偽狡獪モ亦甚ト謂フベシ。其生靈ノ祟リト唱ヘ、現ニ其人ヲ指スニ至ツテハ、往々大害ヲ来タシ、或ハ親子兄弟ノ至親ヲ害シ、或ハ夫婦ノ愛ヲ割キ、朋友ノ信ヲ傷ル事ニモ及ブアリ。愚俗惑溺ノ久、禁シテ之ヲ驅ルト雖モ、牢乎抜クベカラズ、歎ズベキカナ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

明治維新以後、「もりこ」や「わか」などによる大衆を惑わすような行為は禁止された。まさに「開明の美事」である。
しかし、現実的には「もりこ」や「わか」などの活動は今も密かに続いている。私が目にした「もりこ」や「わか」の所業を以下に記すこととする。
「もりこ」や「わか」を信ずる家で病人が出たり、事故があったりすると、すぐに「もりこ」や「わか」に祈祷を依頼する。「もりこ」や「わか」はうつ伏せにした桶の上に竹弓を一本置き、また、手には竹枝を頭上に捧げ持ち、時々、その竹で竹弓の弦を敲き、音を出す。その間、般若心経や観音経などを大きな声で唱える。御経が終わる頃、手に持った竹枝が自ら震えはじめ、「もりこ」や「わか」の顔付きが一変する。これを神が乗り移ったという。そして、突如として、「これは生霊の祟りだ」とか、「これは死霊の祟りだ」、「犬や馬の祟りだ」、「神仏を汚した罰だ」などと口にする。これらの殆どは、依頼者の人柄や家の状況などを推察したうえで発するもので、家人を動揺させ、その後、それらを鎮めるための祈祷の方法などを教える。また、なかには、「某月に大地震が起こる」とか、「某日に暴風雨が来る」、「某は何々の神を祀っていないから、火災に遭う」、「某家では何々の塔を作らないから、疫病に罹る」などと言い触らし、祈祷を勧め、その謝礼を得ようとする者もいる。これは狡猾な詐欺行為である。また、目の前にいる人を指差し、「この者がお前に崇りをなしている」などと言うこともあるが、これが原因で人間関係にひびが生じ、親子兄弟を争わせ、夫婦の仲を裂き、友情を破綻させてしまうこともある。しかしながら、人々のなかには「もりこ」や「わか」に頼っている者が多く、これを禁止しても、なかなかそれがやめられない。誠に嘆かわしいことだ。
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旧暦7月24日  わか  

2007年09月09日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。記述の内容は前回の「もりこ」に続き、「わか」に関する事柄だ。

又、わかトイフハ瞽者ノ妻ナリ。死者ノ口よせヲスル。梓巫女ニ同ジ。口よせサスル時、春夏ハ麦、秋冬ハ籾ヲヤル。常ノ升ヨリ大ナル升ニテハカル。是ヲわか升トイフテ別ニアリ。其貰多シ。諺ニ、瞽者ハ女房ニ養ハルトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

また、「わか」と呼ばれる人たちもいる。これは瞽者(ごぜ)の妻で、死人の霊を降臨させ、口寄せをする。梓巫女(あずさみこ)と同じだ。人々が「わか」を招き、口寄せを御願いした時には、御礼として、春夏には麦、秋冬には米の籾をやる。その時に用いる升(ます)は「わか升」と呼ばれ、普通のものより大きい。「わか」たちの稼ぎはよく、「瞽者は女房に養われる」という諺もある。
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