『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦7月24日 地蔵遊び 

2007年08月27日 | 歴史
今年の夏も、そろそろ終わりですね。
とても暑くて、物凄い夏でしたが、それでも、やはり、行く夏を惜しむ、という気持ち・・・、ありますよね。

今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。記述の内容は「地蔵遊び」に関連する事柄だ。

地藏遊トイフ事アリ。人多ク集リ、一人地藏ノ像ヲ手ニ拏テ躍ル。傍ヨリ同音ニ、「南無地藏大菩薩御祈り申せば天までひゞく天もゆらゆら地もゆらゆらゆら引御せんの御地藏さまよ」ト歌ノ如ク節ヲツケテ囃立ル。其拍子ニノリ、彼像ヲ拏テ躍ルモノ、我ヲ忘テ身ヲ振ハシ、汗ヲ流シ、躍リ上リ躍リ上リ、身モ自ラ輕クナリテ人ノワザトモ見ヘズ。是地藏ノ乗リウツリタモフトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

いわき地域では「地蔵遊び」というものが行われている。多くの人々が集り、そのなかの一人が地蔵の像を手に持って踊るものだが、周りの人々は声を揃えて、「南無地蔵大菩薩 御祈り申せば 天まで響く 天もゆらゆら 地もゆらゆらゆら 引御せんの御地蔵様よ」と節をつけて歌う。この歌にのり、地蔵の像を持った者は我を忘れ、身を震わし、汗を滴らせ、盛んに踊り、空中に浮遊するかのような状態になる。この状態を「地蔵様が乗り移った」と言っている。
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旧暦7月24日 車地蔵 

2007年08月22日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。その内容は、車地蔵に関する事柄だ。

車地藏トイフ事アリ。往還ノ傍ニ七、八尺計リノ柱ヲ立、柱ノ中程ヲクリヌキ、其内ニ地藏ノ小像ヲ旋轉(マワル)ヤウニ拵ヘ、其前ニ小籠ヲツリ置、小兒ヲ喪シタル人、石ヲ拾ヒ、花ヲ摘テ、籠ニ入、地藏ヲ廻シテ通ル。小兒死テハ幽冥ニテ地藏ノ車ヲ挽キ、石ヲ積ミ、花ヲル事、故ニ其供養ナリトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

「車地蔵」というものがある。道の傍らに高さ2メートルから2.5メートルほどの柱を建て、その中程をくり抜き、そこに地蔵の小さな像を回転するように据え付け、また、小さな籠を吊るしておく。わが子を亡くした人が子の供養のため、石を拾い、花を摘み、その籠に供え、地蔵の小さな像を回す。子どもの霊はあの世で地蔵が乗った車を牽き、石を積み上げ、花を手向けているそうだが、この「車地蔵」というのは、それと関わりがある。
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旧暦7月24日 地蔵詣 

2007年08月18日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月24日の項には、次のような記述がある。

二十四日 各地、地藏詣。
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旧暦7月20日 平・北目の如意輪観音

2007年08月14日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月20日の項には、次のような記述がある。平の北目にある如意輪観音の祭りについてのものだ。

二十日 北目如意輪観音縁日。夜、花火アリ。此堂ハ磐城四観音ノ一。巡禮札所三十三所ノ第一番ナリ。創建年代、詳カナラズ。相傳フ、聖大子ノ手刻ナリト。寺ヲ如意山普門寺福聚院トイフ。今、普門寺ト称ス。痴鈍禪師ノ開基ナリ。草創ハ今ノ胡麻澤長源寺ノ地ナリシガ、鳥居左京亮忠政、亡父、元忠追福ノ為メニ長源寺ヲ建剏スル時、普門寺ヲ久保甼吉祥院ノ地ヘ移サレタリ。後、彼地モ用地トナリ、再、今ノ地ニ移セリ。故ニ、境内狹少ナリ。

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旧暦6、7月の間  奥参り その5  

2007年08月11日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、前回に引き続き、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項にある湯殿山参詣についての記述を取り上げる。

城北ニ巍立スル二箭山モ、昔日ハ行山ト称シ、山ニ垢離ノ瀑、懺解場、胎内窟ナド称スル處アリ。先達ナル者、參詣人ヲ導ク。大概、湯殿山ニ擬セシモノナリシ。今ヤ、二屋神社ト改称シ、佛者、妄誕ノ説、漸ク破ル。近時、民間盛ンニ行ハルヽハ古峯參詣ナリ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

磐城平城の北の方角に屹立する二箭山(ふたつやさん)も、以前には「行山」と呼ばれ、山の中には「垢離(こり)ノ瀑(たき)」や「懺解場(ざんげば)」、「胎内窟(たいないくつ)」などと呼ばれるところがあった。先達(せんだつ)がいて、参詣人の案内をしていた。これは湯殿山に倣ったものだった。今では、二屋神社と名称を改め、神仏混淆はなくなった。近時、いわきの人々は古峯参詣に訪れるケースが多い。

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旧暦6、7月の間 奥参り その4   

2007年08月09日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、前回に引き続き、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項にある湯殿山参詣についての記述を取り上げる。

維新後ニ及ビ、行屋ナルモノハ多クハ帰農士族ノ家宅ト為リシ。奥參リハ今モ多ケレドモ、潔斎行事ハ昔日ノ如クナラズトイフ。」

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

明治時代になって、各村にあった「行屋」の多くは帰農した武士の家として使われるようになった。現在(明治25年)でも、「奥参り(湯殿山参詣)」を行う者は多いが、それに伴う7日間の潔斎を行う者は少なくなった。


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旧暦6、7月の間  奥参り その3   

2007年08月07日 | 歴史
暑い毎日が続いていますが、いかがお暮らしでしょうか?
暑さを楽しみながら、過ごされていますか?

ここまで暑いと、ビールを飲んでも、すぐに汗になって出てしまいますよね。
でも、それがいい・・・。

今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、前回に引き続き、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項にある湯殿山参詣(奥参り)についての記述を取り上げる。

若年ハ奥參リセズ、大率三十歳以上ノモノナリ。旅立ニハ馬上ヨリ錢ヲ播リ、人出テ拾フ。信心ノ者ハ其年參ラズトモ山伏ノ堂、又ハ真言宗ノ寺ニ入リ、七日ノ別火ニテ行ヲ為ス事アリ。其年、此行ヲ為サント思フ者ハ、山開ノ当日一日別火、潔斎ス。行ノ時ノ衣服ハ常服ト混ゼズ、別ニ藏メ置。參詣ノ時ハ必ズ新衣ヲ用ユ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

年齢の若い者は「奥参り(湯殿参詣)」は行わず、30歳以上になって、初めて「奥参り」をする。
「奥参り」に出立する際には、馬上からお金を撒き(撒き銭)、それを人々が拾う。
また、湯殿山を信仰している者は、その年に「奥参り」をしない場合でも、修験山伏の御堂、もしくは真言宗の寺に籠もり、7日、別火(普段、煮炊きのために用いる火は穢れ、汚れていると考えられ、湯殿山に詣でる際に行われる7日間の潔斎(「行」)では、新たに火を起こし、その火で精進潔斎のための料理を調理する。このような火を「別火」と呼ぶ)による「行」を行う事がある。
その年、「行」をしようと考えている者は、まず、湯殿山の山開きの日に、1日間、別火による潔斎を行う。
「行」の際に用いる衣服は、普段着ているものと一緒にせず、分けておく。また、「奥参り」に赴く際には必ず新しい衣服を着用することになっている。
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旧暦6、7月の間  奥参り その2  

2007年08月03日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、前回に引き続き、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項にある湯殿山参詣についての記述を取り上げる。

奥參リセント思フ者ハ、一七日ノ行(ギヨウ)ヲ為ス事ナリ。一日ニ水垢離三回トス。始メテ參ル者ヲ新客トイフ。新客ハ九日ノ行ナリ。行ニカヽルヲ「火にあかる」トイフ。初日ヲ胴拂トイフテ、蒸タル物バカリヲ食ス。第二日ハ火食セズ。第三日ヨリ煮調タル物ヲ食ス。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

その年、「奥参り(湯殿山参詣)」をしようと思う者は、7日間の「行」を行う。1日に水垢離を3回とる。始めて「奥参り」するものを特に「新客」という。「新客」は9日間、「行」を行う。「行」を行うことを「火にあかる」ともいう。初日を「胴払い」といって、蒸した物だけを食べる。第2日目は食事をせず、第3日目から煮た物のみを食べる。
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旧暦6、7月の間 奥参り その1  

2007年08月01日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項には、次のような記述がある。湯殿山参詣(「奥参り」)についての記述だが、長文に及ぶので、これから何回かに分けて紹介する。
まずは1回目。

六、七月ノ間、出羽國湯殿山ヘ參詣ノモノ多シ。之ヲ奥參リトイフ。湯殿山ハ四月八日、山開キ、八月八日マデノ行山ナリ。毎村ニ行屋ト称スル一宇ノ堂舎アリ。村人、別火、潔斎ノ為メニ設タルモノナリ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦6、7月には、出羽国の湯殿山に参詣するものが多い。これを「奥参り」という。湯殿山は旧暦4月8日に山開きが行われ、旧暦8月8日までが「奥参り」の期間になっている。それぞれの村には「行屋」と呼ばれる建物があり、「奥参り」をしようとする者たちが、ここに籠もり、別火による潔斎を行う。
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