『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

旧暦7月18日 平の馬鹿市  

2007年07月29日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月18日の項には、次のような記述がある。

十八日 馬鹿市、正月十八日ニ詳カ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月18日 馬鹿市。これについては旧暦1月18日の項に、その詳細を記述したので、そちらを見て欲しい。

では、その旧暦1月18日の記事を見てみよう。

是日ト七月十八日ノ市ヲ馬鹿市トイフ。盆、正月、遊日ノツヾキタル後、馬鹿ナルモノ市ニタツトイフ事ナリ。村民ハ、スベテ市ニ出ルヲ保養トシ、酒飲半分ニ、少シノ賣物ヲ持テ出ル事多シ。故ニ、市日ニハ醉人多シ。
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旧暦7月中旬 献上初鮭獲り  

2007年07月27日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月の項には、7月中旬の事項として、次のような記述がある。

是月中旬 城主安藤家ヨリ植田鮫川ノ鮭(サケ)ヲ幕府ヘ献上ス。初鮭トリトテ、漁人我先ニト舩ヲ出シ、網ヲ下ス。一番鮭ヲトリ出ス者ヘハ金三両、二番ハ二両二分、三番ハ二両ヲ賜フ。七番マデアリ。賜金段々減ズ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月中旬 磐城平城主・安藤家が幕府に植田の鮫川で獲れた鮭を献上する。この献上初鮭を獲ることを「初鮭獲り」といい、漁師たちは先を争って船を出し、網で鮭を捕まえる。1番鮭を獲った者には金3両が贈られ、2番鮭を獲った者には金2両2分、3番鮭を獲った者には2両が贈られる。7番鮭を獲った者にまで、お金が贈られる。その金額は順に少なくなっていく。
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旧暦7月17日  観音様の縁日   

2007年07月25日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月17日の項には、次のような記述がある。

十七日 觀音縁日、石森初メ各處觀音參詣多シ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月17日は観音様の縁日になっている。石森の観音様をはじめ、いわき各地の観音様で祭りが行われ、多くの人々が参詣に訪れる。

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盆中 盆釜  『磐城誌料歳時民俗記』 より

2007年07月24日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の「盆中」の項には、次のような記述がある。「盆釜」という行事についてのものだ。

盆中 村里ニテ、庭ニ假リニ竈ヲ塗リ、夜々月前ニ茶ヲ烹ル。輕ク茶菓子ナド出シ、鄰家寄合テ茶事ヲスル。之ヲ盆釜トイフ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

お盆の間、村々では、庭先に仮設の竃を造り、毎晩、月が出る前にお茶を立て、簡単な御菓子も用意し、近所の人たちが集ってお茶を飲む。これを「盆釜」と呼んでいる。
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盆中 じゃんがら念仏踊り 2 

2007年07月23日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の「盆中」の項には、次のような記述もある。いわきの名物「じゃんがら念仏踊り」についての記述だ。

盆中、各國トモニ舞踏アリ。其曲、其状、各異同アリ。我郷ノ念佛躍、名ハ松ケ崎題目おどり。糺ノ念佛おどりト同ジナレドモ實ハ一種ノ踏舞ナリ。俚諺ニ、「岩城の名物ぢやんがら念佛菜大根、脊中ニ灸點てんのくぼ」トイフ。郷人ハ皆了知スル事ナレドモ、名物ト称スルハ岩城ニ限リシ一奇俗ナレバ、此ニ其概畧ヲ記セン。ぢやんがら念佛トハ即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ、皷ヲ撃ツ。皷者両、三人、中央ニアリ。白布頭ヲ約シ、袖ヲ括ル。之ヲ白鉢巻、白手繦トイフ。皷ヲ腹下ニ着ケ、頭ヲ傾ケ、腰ヲ屈メ、撥ヲ舞シ、曲撃ス。鉦者数名、打粧皷者ニ同ジク、鉦架ヲ左肩ニシ、丁子木ヲ以テ摩敲ス。皷ノ数ヲ幾からトイヒ、鉦ヲ敲クヲきるトイフ。踏舞スル者、之ニ雜リ、皷者ヲ環リ、鱗次輪行ス。鉦皷ニ緩急アリ。其急ナルヤ、走馬燈ヲ観ル如ク、張三李四、手ヲ振テ走ル。其緩ナルヤ、一斉ニ唱ヘテ曰ク、なァーはァーはァーなァーはァーはァーめェーへェーへェーめェーへェーへェー。媚舞巧踏、手ヲ拍テ節ヲ為ス。所謂じんくおどりニ類似シテ非ナルモノナリ。其中、男ニシテ女粧スル者アリ。女ニシテ男粧スル者アリ。或ハ裸體ニシテ犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ビ、後者モ亦 端ヲ尾垂スルアリ。或ハ菰莚ヲ鎧トシ、蓮葉ヲ兜トシ、箒、檑木等ヲ以テ大小刀トシ、假面ヲ蒙リ、武者ニ扮スル者アリ。務テ新ヲ競ヒ、笑ヲ釣ル。其醜態目スルニ忍ビザルモノアリ。此ぢやんがら念佛ハ、獨リ盂蘭盆ノ節ノミナラズ、各神社佛閣ノ宵祭リニモ躍ル。或ハ開帳、入佛供養、大般若會等ニモ躍ル。領主ノ法事執行ノ時モ其菩提寺ニ来リ、堂前ニテ躍ル。當坐ニ酒肴ヲ賜フ。但、盆中ト宵祭ノ外ハ、男女粧ヲ異ニスル如キ醜態ハナカリシ。縣治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ。今ヤ稍々舊ニ復スル模様ナリトゾ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。相当のボリュームになるが、お付き合い願いたい。

お盆の間、日本全国各地で盆踊りが行われる。盆踊りの歌や曲、踊り方などは、その土地土地で、さまざまである。
我、いわき地域の念仏踊りは、名を「松ケ崎題目踊り」といい、「糺の念佛踊り」とほぼ同じものだが、異なるところもある。
ところで、いわきの昔からの言葉に「岩城の名物 ぢゃんがら念仏、菜大根、背中に灸点、てんのくぼ」というものがある。ここにある「じゃんがら念仏踊り」のことを、いわきの人々は勿論、知っているが、いわきの名物でもあるので、以下、その概略を記すこととする。
「じゃんがら念仏踊り」は念仏踊りの一つで、男女が輪になったり、列になったりして踊るものである。また、その際、鉦(かね)や太鼓が用いられる。
太鼓を叩く者の数は2、3人で、輪の中央に位置する。白い布で頭を縛り、袖をたくし上げる。この出で立ちを「白鉢巻、白手繦」という。太鼓は腹の下の方に付け、頭を傾け、腰を屈め、手に持った撥(ばち)を巧みに使い、舞を舞っているような仕草で太鼓を叩く。
また、鉦を叩く者の数は数人で、出で立ちは太鼓と同じである。鉦を左肩から提げ、「丁字木」という撥で、こするようにして叩く。
太鼓の数を数える時には、「ひとがら」「ふたがら」と数え、鉦を叩くことを「きる」という。
「じゃんがら念仏踊り」は太鼓を叩く者と鉦を叩く者とによって踊られるが、それ以外に「踏舞する者」、つまり、太鼓も鉦も持たず、ただ踊りを踊るだけの者たちも「じゃんがら念仏踊り」の輪に加わる。これらの「踏舞する者」たちは、太鼓を叩く者たちの周囲を廻りながら踊り続け、踊りの輪をどんどん増やしていく。
太鼓や鉦のテンポには緩急がある。テンポが速いところでは、走馬燈のように目まぐるしく手を振り、アップ・テンポに踊る。また、テンポが緩やかになると、皆が一斉に「なァーはァーはァー、なァーはァーはァー、めェーへェーへェー、めェーへェーへェー」と歌いながら、艶やかに踊り、手拍子を打ち、節を付ける。これは甚句踊りに似たものではあるが、異なるところもある。
「じゃんがら念仏踊り」の輪の中には、女装した男がいたり、男装の女もいる。また、裸になり、自分の褌と他人の褌と結び、「じゃんがら念仏踊り」を踊っている者もいる。さらには、鎧に見立てた菰や莚を身に付け、蓮の葉を兜に見立て、箒や擂り粉木棒を大小の刀の代わりにし、仮面をかぶり、武者に扮装して踊る者もいる。
このように人々はパフォーマンスの斬新さを競い、笑いを誘うことに躍起となる。なかには度を超してしまい、見るに忍びないような有り様の者たちもいる。
「じゃんがら念仏踊り」はお盆の時だけに踊られるのではなく、神社仏閣の宵祭りや開帳、入仏供養、大般若会などの時にも踊られる。また、領主の法事の際などにも、その菩提寺で踊られ、「じゃんがら念仏踊り」の一行に酒や御馳走が振る舞われる。
しかし、踊りの輪に加わる者たちが男装をしたり、女装をするなどのパフォーマンスの限りを尽くすのは、お盆と宵祭りの時だけである。
明治6年(1873)、「じゃんがら念仏踊り」は公序良俗に害をなすとか、近代化した文明社会に相応しくないとの理由から禁止されてしまった。
しかし、一旦禁止された「じゃんがら念仏踊り」ではあったが、現在(明治25年(1892)頃)では、以前のようなかたちのようなものに戻りつつある。


随分、長くなってしまってすみませんでした。

でも、お付き合いいただき、ありがとうございました。

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盆中 じゃんがら念仏踊り 1  

2007年07月22日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみようと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の「盆中」の項には、次のような記述がある。

盆中 村里ヨリ鉦太皷ニテ老若男女打交リ、十四、五ツレテ城下ニ来リ、神社、佛寺ヲ廻リテ念佛躍スル。甼家新盆ノ家ノ前ニテ躍ル。又、呼入テ、念佛サスル家モアリ。甼々ヲ廻リ、夜深テ村里ヘ帰ル。若輩ノ男子ハ鉦太皷打鳴シ、十王堂十ケ所ヲ巡ル。之ヲ十十王(トジウワウ)申ストイフ。枕友。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

お盆の期間中、鉦や太鼓を携えた「じゃんがら念仏踊り」の一行が近くの村々から磐城平城下にたくさんやってくる。そこには年老いた者も、若い者も、男も、女もいる。ひと組の人数は14、15人ほどである。
「じゃんがら念仏踊り」の一行は、城下の神社や仏閣を廻り、念仏踊りを踊る。また、商家や新盆の家の前でも踊る。なかには「じゃんがら念仏踊り」の一行を家の中に招き入れ、踊りをさせる家もある。
一行は城下を廻り、夜遅くになって、ようやく村里へ帰る。
青年たちの「じゃんがら念仏踊り」の一行は、磐城平城下にある10か所の「十王堂」も巡り歩くが、これを「十十王(とじゅうおう)申す」と呼んでいる。
以上の記述は、吉田定顕が江戸時代の宝暦年間に書き著した『磐城枕友』という文献から引用した。



近くの村々から「じゃんがら念仏踊り」の一行が磐城平の町に押し寄せ、町中、いたるところで「じゃんがら念仏踊り」を繰り広げる。町はエネルギーや熱気で満ち溢れ、また、前回紹介した迎え火、送り火の風習とも相俟って、「じゃんがら念仏踊り」の歌の歌詞にもあるように「一度来てみな 磐城の平 町は火の海 じゃんがら念仏」という状態になっていたのだと思う。
磐城平という町は、情緒とエネルギーに満ち溢れた町だったのだ。
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旧暦7月14日~16日 迎え火、送り火 

2007年07月21日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。
『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月14日から16日の項には、いわき地域の、かつてのお盆期間中の習俗について、次のような記述がある。

十四日ヨリ十六日マデ 迎火、送火。街上、家々ノ店前ニ、松木ヲ井桁形ニ積ミ層ヌル。一、二所、或ハ三、四ケ所、間口ノ廣狹ニ隨フ。十四日ノ暁、同日ノ暮、十五日、十六日ノ暮ト都合四度、之ヲ焚ク。平城ノ西入口長橋甼ヨリ焚始メ、甼順ヲ逐ヒ、東口鎌田甼ニテ焚終ル。近時ニ及ビ、十四日暁ノ迎火ダケハ廃止セリ。火勢天ニ映ジ、白晝ニ異ナラズ。見物人多ク出ル。四度トモ火番ノ吏、騎馬ニテ警固アリ。此火ハ暗ニ諸害蟲ノ蝶ニ化シテ種子ヲ遣サントスルモノヲ撲殺ス。古人之ヲ迎火、送火ニ寓シ、人々ヲシテ行ハザルヲ得ザラシム。用意微妙ト謂フベシ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

お盆の旧暦7月14日から16日までの間、磐城平城下では迎え火や送り火が焚かれる。町中の家々の店先には、松の木が井桁(いげた)に積み重ねられる。その数はそれぞれの店の間口の広さによって左右されるが、一、二か所だったり、三、四か所だったりする。
14日の朝と夕暮れ、そして、15日と16日の夕方、4回にわたって、井桁に積み上げられた松の木に火が付けられる。その際には、磐城平城下の西の入口にあたる長橋町から焚き始められ、その後、各町内が順々に火を焚き始め、城下の東口にあたる鎌田町が最後に火を付ける。しかし、最近では、14日の朝の迎え火は行われないようになった。
城下の店先で焚かれる火の勢いは相当なもので、火炎は天にまで達し、あたりは昼間のような明るさになる。そして、その様を見ようと、多くの人々が町に押し寄せる。その警固のため、御城から馬に乗った役人が派遣される。
ところで、この火は勿論、お盆の迎え火や送り火という意味合いで焚かれるわけだが、この行事には田畑の害虫を駆除するための虫送りの意味合いも込められている。このように一つの行事に対し、複数の意味合いが込められると、その行事の意義が増大され、存続するうえでも大きなメリットが付加されることになる。



こういう行事を、今のいわきに復活することが出来たら、いいのになぁ。

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旧暦7月14~16日 盆燈籠  

2007年07月20日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月14日から16日の項には、いわき地域の、かつてのお盆期間中の習俗について、次のような記述がある。

十四日ヨリ十六日マデ、甼家ハ皆簾ヲカケ、燈籠ニ點火ス。分限ニ隨ヒ、二、三十、或ハ五、六十、冨家ニハ百ニモ及ブアリ。きり子、おり子ノ細工ヲ盡シ、家内縄引渡シ、所セクマデ吊(ツル)ス。新盆ノ家ニハ殊ニ多シ。後、燈籠ヲ多クツルスハ、新盆ノ家ノミニナリシ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月14日から16日のお盆の間、磐城平城下の町家では皆、簾(すだれ)を掛け、燈籠を吊るし、それに火を点す。
燈籠の数は家々の財産の多い少ないによっても異なるが、2、30個の燈籠を点す家もあれば、5、60個の燈籠を点す家もある。また、裕福な家では100個もの燈籠を吊るし、それに火を点す家もある。
燈籠には、切り子細工(紙に切れ目などを入れ、きれいな装飾を施すこと)や折り子細工(紙を折り、きれいな装飾を施すこと)など、見事な装飾が施される。そして、それら燈籠は張り巡らされた縄に吊るされる。
新盆を迎える家では、特別にたくさんの燈籠が点される。
時代が下るに従い、たくさんの燈籠を点すのは、新盆を迎える家だけになった。


宵闇、簾(すだれ)越しの燈籠の明かり・・・、何とも風情がありますね。情趣豊かですね。時間がまったりと流れていきますね。
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旧暦7月13日 盆迎え 

2007年07月19日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。

この『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月13日の項には、次のような記述がある。盆迎えについての記述だ。

十三日 聖靈棚ヲツクル。新盆ノ家ヘハ燈籠、素麺ナドヲ贈ル。夜ニ入リ、男女トモ先塋ヲ拝ス。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月13日 盆棚を作り、そこに位牌や供物などをあげる。新盆を迎える家に盆燈籠(ぼんどうろう)や素麺(そうめん)を贈る。夜、家族揃って先祖の墓参りをする。


旧暦7月13日は、江戸の昔も、そして、平成の今も、お盆様を迎えるための日であることに改めて気付かされる。


紹介した文中に「塋」という見慣れない漢字が使われているが、これは「墓」という漢字とほぼ同じ意味でとらえていいらしい。「土」の上に「火」が点されているというのは、子孫たちによって懇ろにまつられている「墓」という感じがする。
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旧暦7月12日 生見魂(いきみたま)

2007年07月18日 | 歴史
今回もまた、大須賀筠軒(おおすがいんけん 天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、明治25(1892)年に書き記した 歴史春秋社刊)を紐解いてみたいと思う。

 この『磐城誌料歳時民俗記』には、江戸時代から明治時代の初めにかけてのいわき地域の民俗や人々の暮らしが極めて丹念に書き綴られている。

 さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦7月12日の項には、次のような記述がある。

十二日 市中群集ノ中ニテ、男女トモ容貌ノ亡親ニ似タル人ニ遇ヘバ、酒店ニ招キ入レ、酒ヲ勧メ、モテナス。
是條、枕友ヨリ抄出ス。寳暦間、此ノ如キ風俗アリシナリ。今ハ古老ト雖モ知ル者ナシ。

これを現代的な表現に書き改めると、次のようになるかと思う。

旧暦7月12日 まちなかで、自分の亡くなった親に顔付きが似ている人を見つけると、酒屋に招き入れ、お酒を御馳走する。
この記述は、江戸時代の宝暦年間に吉田定顕が書いた『磐城枕友』から引用したものだ。宝暦の頃には、いわきの地でも、このような風習が行われていたのであろう。しかし、現在(明治25年)では、このようなことは行われておらず、年老いた者に聞いても記憶がないという。


この生見魂というのは、珍しい習俗だ。いわきでも、江戸時代の中頃には行われていたようだが、明治時代になる以前に、すでに行われなくなってしまったらしい。
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