かつて磐城平城下で開かれていた「馬市」について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも書き記している。
市ニ出ル馬奴(うまやっこ)一人ニテ二、三疋(ひき)ヲ併セ牽ク。
女子ノ馬奴モアリ。多クハ牝馬ナリ。
山ツキ村々多ク馬ヲ産ス。
生テ十日程過レバ、二、三里ノ所、市ニ出ルニ、
放駒ニテ、母馬ニツキ来ル。母子、相離レザル故ナリ。
子馬ヲとうねトイフ。當年トイフ事カ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
馬市にやって来る馬奴は1人で2、3頭の馬を牽いてくる。
馬奴には女性もいる。馬市に出されるのはほとんどがメス馬である。
多くの山間の村々が馬を育て、市に出す。
馬は生まれて10日もすれば、
8から12キロメートルほどの距離を歩いて市まで来る。
子馬は紐で繋がれることはなく、母馬に寄り添うようにしてやって来る。
母馬と子馬は互いに離れようとしない。
その年に生まれた馬を「とうね」と呼ぶが、
これは「当年」に由来しているものであろうか。
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のようにも書き記している。
市ニ出ル馬奴(うまやっこ)一人ニテ二、三疋(ひき)ヲ併セ牽ク。
女子ノ馬奴モアリ。多クハ牝馬ナリ。
山ツキ村々多ク馬ヲ産ス。
生テ十日程過レバ、二、三里ノ所、市ニ出ルニ、
放駒ニテ、母馬ニツキ来ル。母子、相離レザル故ナリ。
子馬ヲとうねトイフ。當年トイフ事カ。
これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。
馬市にやって来る馬奴は1人で2、3頭の馬を牽いてくる。
馬奴には女性もいる。馬市に出されるのはほとんどがメス馬である。
多くの山間の村々が馬を育て、市に出す。
馬は生まれて10日もすれば、
8から12キロメートルほどの距離を歩いて市まで来る。
子馬は紐で繋がれることはなく、母馬に寄り添うようにしてやって来る。
母馬と子馬は互いに離れようとしない。
その年に生まれた馬を「とうね」と呼ぶが、
これは「当年」に由来しているものであろうか。