『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

磐城平城下の馬市 その1

2007年04月19日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
書き残した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)には、
かつて磐城平城下で開かれていた「馬市」について
次のような記述がある。

磐城平の「馬市」は、例年、旧暦3月22日から5月中旬まで行われ、
相当の活況を呈していたらしい。

それについて、筠軒はまず次のように書き記している。

廿二日ヨリ五月中旬マデ、毎市日ニ小荷駄馬ノ市タツ。
馬市中ハ長橋、鎌田、久保甼ノ三方出口番所ニテ
割符ヲ以テ馬ノ出入ヲ改ム。市中数千疋ノ賣買アリ。
是條ハ宝暦十一年ノ記録ヨリ抄出ス。
馬市ハ四、五十年以前ヨリ廃絶セリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦3月22日から5月中旬までの間、磐城平の町では、
六斎市が開かれるのに合わせ、小荷駄馬の馬市が開かれる。
その際には、磐城平城下への入り口に当たる長橋、鎌田、
久保町の3か所の番所で割符が発行され、
馬の出入がチェックされる。
馬市では数千匹の馬の売り買いが行われる。
なお、馬市に関するここまで記述は
宝暦11年の記録から引用したものである。
しかし、残念ながら、磐城平城下で催されていた馬市は
今(明治25年)から4、50年前に
既に廃絶してしまっている。


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岩井戸観音

2007年04月17日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』には、
福島県の浜通りにある岩井戸観音についても、次のような記述がある。

(旧暦3月)十七日 岩井戸観音詣アリ。
岩井戸ハ冨岡近傍ニテ、城下ヨリ北九里餘、
岩城三十三觀音順礼札ノ納メ所ナリ。
不思議ノ靈佛ナリトテ、山家ニハ珍ラシキ參詣ナリ。
農家馬ヲ飼フ者ハ、安手山ノ馬頭觀音ヘ參詣スル多シ。

岩戸観音は多くの人々の信仰を集めており、
また、磐城33観音の33番目の札所で、
巡礼者が札を納める観音様に当たるという。
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石森山 忠教寺の古鐘

2007年04月15日 | 歴史
石森観音の別当を務めている忠教寺には、
以前、南北朝時代に作られた梵鐘があったとう。
その古鐘について、
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)のなかで、
次のように述べている。

當山忠教寺古鐘、赤井郷浅口東禪寺ニ傳リ、再ビ轉ジ、
白水村願成寺彌陀堂ニ簨簴セシガ、
維新後、鋳潰タリトテ、今ハ見ヘズ。特ニ惜ムベシ。
此ニ銘文ヲ録シ、考古ノ資ニ供ス。
奥州磐城郡、石森忠教寺、常住之大鐘、大檀那、常州久慈西横瀬大工圓照、
應安元戊申小春日。
奥州磐城郡赤井郷、浅口東禪寺大鐘者、本石森之鐘也、
永和二丙辰暦買取、為海雲山東禪寺常住公用也、住持比丘希潤、
勸進僧希燈、永和二二年小春日。
按ニ、応安元年ハ北朝後光嚴帝ノ年号、足利義満将軍タリ。
南朝後村上正平二十三年ニ当ル。応安元年、永和二年ト相距ル、僅ニ九年。
其久シカラズシテ、東禪寺ノ有ト為ル。尤不審ナリ。
当時、南北両朝ニ分レ、天下紛乱。
寺門ト雖モ必ズ餘殃ヲ免ガレザルモノアリ。
恐クハ、寺務窮迫ノ事ニ罹リ、賣与セシモノナラン。
又、末ニ永和二二年トアルハ、二年ニ買取リ、
四年ニ銘文ヲ鐫セシ故ニ其歳ヲ舉シナルベシ。
石森開闢ノ邈遠ナルハ、此古鐘ヲ以テ想像スルニ足レリ。
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磐城四観音

2007年04月14日 | 歴史
前回、「磐城四観音」という言葉を紹介したが、
これについても、大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)に
詳細な記述がある。

磐城四観音ト称スルハ、
第一番、平(たいら)北目(きため)如意輪觀音。
第二番ハ城南半里許、上荒川村藏勝寺天津(あまつ)観音ニテ、
大同元年、一大師ノ開創、手刻ナリ。堂領御朱印五石アリ。
第三番ハ石森觀音、第四番ハ城南半里許、
北郷下綴(しもつづら)村ノ童堂(わらいどう)觀音ナリ。
相傳フ、童子戯ニ沙土ヲ以テ佛塔ヲ作リシヨリ起ル。
故ニ童堂トイフト。或ハ云フ、異人来集、一夜ノ中ニ此堂ヲ經營ス。
天、将ニ明ナントスル時、天井板一枚ヲ張ノコセシトテ大笑シテ去ル。
故ニ笑堂トイフト。佛宇畧記ニハ、大同元年、一ノ開創、手刻トアリ。
三十三番第三番ノ札所ナリ。
 
この記述にもあるように、「磐城四観音」というのは、
いわき市平北目の如意輪観音、
上荒川の天津観音、
石森の石森観音、
そして、内郷綴の童堂観音のことだ。

「磐城四観音」をのんびりと巡ってみてはどうですか。


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いわき市平 石森観音 その1

2007年04月13日 | 歴史
いわき市平の北にそびえる石森山は、
私たちにとって、とても身近な山だ。
小学校や中学校の遠足の際に何度も登ったことがあるし、
また、山の頂き近くには「石森山フラワーセンター」あって、
そこにも、よく足を運ぶ。四季それぞれに、さまざまな花が咲いている。

さて、大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(明治25年(1892)序文執筆)には、
この石森山に祀られている観音様についての記述がある。
まずは3月17日の項に、

三月十七日 石森觀音縁日。參詣人、正月十七日ニ同ジ。

とあり、1月17日の項には、さらに次のようにある。

十七日 石森観音縁日、參詣夥シ。領主ヨリ警固ヲ出ス。
石森山ハ城北壱里許ニアリ。観音ハ大同元年、一大師ノ自刻ニテ、
磐城四觀音ノ一、三十三番札所ノ一ナリ。
堂領御朱印十石アリ。別當ヲ忠教寺トイフ。
堂額、磐城山ノ三大字ハ、朝鮮國使廣川ノ書ニテ、
天和二年壬戌、内藤左京亮義概、朝鮮使ノ舘伴ヲ命ゼラレシ時、
嘱書セシモノニテ、磐城山ノ號ハ、此時ヨリ始ル。
古歌称スル所ノ磐城山、必シモ此山ヲ指スニアラズ。
然モ、磐城郡平坦ノ地ニ突出シ、
諸小山ノ主位ヲ占ムルハ此山ナレバ、
磐城山ノ称モ極メテ適當ト謂フベシ。
  
これを現代的な表現に改めると次のようになるかと思う。

1月17日、この日は石森観音の縁日で、多くの参詣人が訪れる。
そのため、磐城平藩から警護のために人が派遣される。
石森山は磐城平城の北、4キロメートルほどのところにある。
この観音様は大同元年(806)、一大師が自ら製作したもので、
磐城四観音の一つであり、また磐城三十三観音の一つにもなっている。
御朱印領として十石を保有し、別当は忠教寺である。
観音堂に掲げられている「磐城山」の額は、
朝鮮国使、広川の書で、
天和2年(1682)、磐城平藩主、内藤義概が依頼して書いてもらったものだ。
これ以後、この山を磐城山と呼ぶようになった。
しかし、昔の和歌に詠まれている「磐城山」というのは、
必ずしもこの山のことではない。
しかし、この山は周りの山々の盟主のような存在となっており、
「磐城山」と呼ばれるのに相応しい山である。

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いわき湯本の白鳥阿弥陀堂の縁日

2007年04月11日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』の
旧暦3月15日の項に次のような記述がある。
いわき市常磐の白鳥にある阿弥陀様についての記述だ。


十五日 白鳥阿弥陀、縁日ナリ。
白鳥阿弥陀ハ城南二里餘、北白鳥村ニアリ。堂領御朱印五石。
大同二年、藤原草刈磨、一大師ト謀リ、草創スル所ナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦3月15日は白鳥の阿弥陀様の縁日である。
白鳥阿弥陀堂は磐城平城の南の方角約8キロメートルのところにあり、
5石の御朱印領を拝領している。
大同2年(807)に藤原草刈磨が徳一大師と力を合わせ、
この地に創建したものと伝えられている。

いわき市の常磐湯本は温泉地として全国に知られているが、
「四時湯客絶ヘズ(一年を通して温泉客が途絶えることがない)」
と言われた江戸時代のいわき湯本温泉の隆盛ぶりは、
『磐城誌料歳時民俗記』の2月15日の項に、
次のように記されている。

湯本ハ城ノ西南一里二十八甼、三箱山ノ南麓ニアリ。
温泉数所ニ湧出ス。埋樋アリ、家々ニ分チ引キ、浴槽ヲ設ク。
三箱ノ御湯、是ナリ。古歌ニ、
「あかずしてわかれし人の住む里はさはこのみゆの山のあなたか」。
温泉神社アリ。延喜式神名牒ニ載ス。古ヨリ名勝ノ區ナリ。
枕友ニ、四時湯客絶ヘズ、湯女アリ、戸数三百餘、繁昌ノ地ナリト記ス。
西嶋蘭溪ノ病間偶筆ニ、磐城三箱ノ温泉ハ古歌モアリテ、名所ナリ、
土風ニ、「送りましよかよ天王崎へそれで足ずば舟尾まで」
トイフアリ。送我上宮ノ國風ニ彷彿タリト見ユ。

いわき湯本温泉では、かつて地区内の数箇所から温泉が地表面に自噴し、
それを埋め樋などで各家に引き入れていたという。
また、いわき湯本に鎮座する温泉神社は
「延喜式」に記載がある「式内社」で、
そのことからもいわき湯本温泉の古い歴史を窺い知ることができる。

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いわき市小川町上平の東小川熊野三所権現

2007年04月05日 | 歴史
いわき市小川町上平に東小川熊野神社がある。
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が

明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』には、
熊野神社の例祭が旧暦の3月15日に行われていたとして、
以下に引用するような記述がある。
また、筠軒の筆は、別当、光明寺のこと、
修験の年行事のこと、
山伏の「回り旦那」(「かすみ」)のこと、
修験年行事である越田和氏と上平氏の争いのことなど、
さまざまなことに及んでいる。

十五日 東小川熊野三所権現例祭。
東小川熊野ハ城北二里十甼許、上(ウハ)平(ダイラ)村ニアリ。
治安三年、紀州熊野ノ神ヲ勧請スル所ナリトイフ。
別當光明寺、修驗ニテ、岩城ノ年行事タリ。
古文書数通ヲ藏ス。暦應二年三月一日、権少僧都隆賢ノ譲状アリ。
隆賢ハ郡主岩城清胤ノ子ナリ。
光明寺ノ主トナリ、修驗道ヲ修スルヨリ、子孫世々熊野別當タリ。
維新後、復飾シテ上平ヲ氏トス。猶此祠ニ奉仕ス。
因ニ録ス。光明寺ニ藏スル古文書ノ中ニ、文安三年、
三坂七郎信忠ヨリ上平式部ヘ贈リシ状ニ
「年行事職ノ内、北方正眞仕配ニ預リ置申候。
已来、上平ヱ不届キ成儀仕候ハヾ、右之霞御取カヘシ云々」トアリ。
按ニ、霞トハ山伏ノ回リ旦那ヲイフ方言ナリ。
枕友ニモ、某山伏ハかすみヲ多ク持チ居ルナドイフト見ユ。
又、慶長十八年、岩ケ崎修驗年行事越田和ト
岩城年行事上平ト両郡霞下ノ争論起リ、
公事ニ及ビシ事、其頃ノ文書ニ見ユ。
霞下争論ハ即得意塲ノ争ヒナレバ、
かすみトイフ事、古ヨリ称セシ詞ナラン。
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いわき市平沼之内の賢沼(かしこぬま)

2007年04月04日 | 歴史
いわき市平の沼之内に賢沼(かしこぬま)がある。
この沼には大型のウナギが生息しており、国指定の天然記念物になっている。

この賢沼について、大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』のなかに、次のように記している。

(旧暦3月)十五日 沼内賢沼辨財天、例祭。
沼内辨天ハ城ノ巽位二里半許、沼内村ニアリ。御朱印十石。
保元二年ノ勧請トイフ。
賢沼周囲九百歩、祠ハ北崖ノ小島上ニアリ。
籠堂、沼ニ臨ム。遊人、欄ニ凭リ、手ヲ拍ツ、鯉鮒水面ニ群リ浮ブ。
參詣人ノ毎ニ餌ヲ與フルニ狎ルヽナリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦3月15日は、沼之内の賢沼弁財天の例祭だ。
沼之内の弁財天は磐城平城の東南の方角、約10キロメートルのところにある。
御朱印を与えられている所領が10石ある。
保元2年(1157)に、この地に勧請されたといわれている。
賢沼の周囲は900メートルほどあり、池の北側の小島に弁天様を祀る祠がある。
また、沼に籠堂がある。
参詣人たちは籠堂の欄干にもたれかかり、手を叩くと、
沼のコイやフナが集って来て、餌を貰ったりする。

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二布(ふたの)

2007年04月02日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』に、
次のような記述がある。
かつて女性が身につけていた下着に関する事項だ。

ふんどし。婦女ノ着スルハ、女鼻褌ト書ク。脚布ハ一名ナリ。
ゆぐ、ゆもじトハ女中ノ替言葉ナリ。
又、賎シキモノハ、布二幅ニテスル。
故ニ、ふたのトイフ。
此事フルキ事ニヤ。
萬葉集ニ、「たのしみは夕顔棚のしたすゞみおとこはてゞら女は二布して」。
てゞらトハ襤褸トモ、鶉衣トモ書テ、つゞれノ事ナリ。
又、賀州人ハ襦袢ノ事ヲてゞらトイフ。
其所ノ方言ナリト牛馬問ニ見ユ。

なお、ここに引用されている歌は
万葉集には収録されていないそうだ。
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吾妻からげ

2007年04月01日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』には、
平の塩の虚空蔵尊のお祭りのことが記されていたが、
それに続けて筠軒は、神社やお寺に参詣する際の女性の服装についても、
次のように記している。

農商家ノ婦女、神社佛閣ノ参詣、或ハ物見遊山ナドニテ外出ノ時ハ、
下着ノ單物(ひとえもの)ヲ餘(あま)シ、
上着ノ両妻(りょうづま)ヲトリテ帯ニ挟ム。
單衣(ひとえ)ヲ下着ニスルコト、常例ナリ。
夏モ一重帷子(ひとえかたびら)ナル以下ノモノハ、
脚布(きゃふ)計(ばか)リヲ垂テ、帷子ノツマヲ挾ム。
是ナン吾妻からげトイフニヤト、枕友ニ見ユ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

農家や商家の女性が、神社や佛閣に参詣する際、
あるいは物見遊山などに出掛ける際には、
下着はそのままにし、上着の両方の裾をたくし上げ、
それを帯に挟むというような出で立ちをする。
単衣物を下着に用いるのが普通だ。
しかし、夏には下着は付けないので、その場合には、
上着の裾をたくし上げ、腰巻だけを下げて外出する。
この出で立ちを「吾妻からげ」という。
このようなことが吉田定顕の著述『磐城枕友』に書いてある。
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