『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦11月8日 ふいご祭り

2008年01月31日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦11月8日の項には、
次のような記述があります。
鍛冶職人たちが行う「ふいご祭り」についてのものです。

八日 鍛冶ノ輩、槖籥(フイゴ)祭リ。是ハ三條小鍛冶宗近以来、稲荷ノ神ヲ祭ルナリトイフ。宗近、劍ヲ造ルニ稲荷山ノ埴ヲトリテ刃ヲ焼クニ最モスグレタリシ故ニ此埴ヲトル。神恩ヲ謝スル為、此神ヲ祭リシ遺風ナリ。俗説ノ狐ノ合鎚セシトイフハ、無稽ノ妄言ナリト、牛馬問ニ見ユ。或ハ金山権現ヲ祭ルトモイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦11月8日 鍛冶職人たちが「ふいご祭り」を行う。
これは三條小鍛冶宗近の故事に由来し、
稲荷様をお祭りするなどといわれている。
剣を打つには、稲荷山の鉄が最も適しているので、
その鉄を用い、それで稲荷様を信仰しているのである。
三條小鍛冶宗近が狐の力を借りて刀を打ったので、
それ以来、稲荷様をお祭りするようになったというのは俗説で
、新井白蛾が著した『牛馬問』にも、
根拠のないことだ、と書いてある。
鍛冶職人の中には稲荷様でなく、
金山権現をお祭りする者もいる。
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陰暦11月5日  神谷花園権現パクパク祭

2008年01月17日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦11月5日の項には、
次のような記述があります。
下神谷の花園神社のパクパク祭りについての記述です。

五日 神谷花園権現パクパク祭。
氏子信仰ノ輩、或ハ九月ニ事故アリシモノ等參詣ス。
パクパク祭トイフ事、未ダ考ヘズ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦11月5日 下神谷の花園神社でパクパク祭が行われる。
神社の氏子やこの神社を信仰している者たちが参詣する。
また、9月の花園神社のお祭りの際に
支障があって参拝できなかった者たちもこの日に参詣する。
パクパク祭という呼び名の謂れについては、まだ考証していない。
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陰暦10月  麦蒔きのエピソード

2008年01月16日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月の項には、
次のような記述があります。
麦蒔きについての記述です。

是月 短日ナルユヘニ、村民ノ麦蒔ハ多ク月夜ナリ。
夜半ニ近ク帰ラントスル時、一人声ヲ揚グレバ、
麦蒔人同音ニ答呼テ、一纏リニ帰ル事ナリ。
内藤家領主ノ時、好間村邉ニテ物騒シキ声ノ平城ヘ聞ケル。
深夜ニ何事ノ出来シヤラント、
監察使、馬ヲ奔ラシ、其所ニ至リ見レバ、
例ノ麦蒔ノ多ク出デヽ、ク呼ケルニゾアリケル。
村民恐怖シテ、如何ナル咎メカアラント呫聶(サヽヤキ)ケルニ、
何ノ沙汰モナカリシトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月 この月は日が短いため、
村の人たちが麦の種蒔きをするのは夜で、
月の明るい日を狙って行う。
真夜中に麦蒔きを終え、家に帰る際、誰かが声を掛けると、
畑で麦撒きをしている人たちがこれに大きな声で応じ、
皆で誘い合って家路に着く。
内藤家が磐城平藩の藩主だった頃、
好間村のあたりでの大きな騒ぎ声が
お城にまで届いたことがあった。
夜更けにどうしたことかと、
見張りの侍が馬で駆けつけたところ、
麦蒔きをしている村人たちが
大きな声を掛け合っているところだった。
村の者たちはお咎めがあるのではないかと案じたが、
何の処罰もなかった。
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陰暦10月20日  恵比須講

2008年01月15日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月20日の項には、
次のような記述があります。
恵比寿講(恵比須講、戎講、蛭子講とも)についての記述だ。

二十日 蛭子講、正月二十日ニ異ナラズ。
是月、諸神出雲國大社ヘ行タモフ。
故ニ神無月トイフ。
惟、蛭子、竃神、山ノ神バカリ留守シタモフトテ、
蛭子講ノ外ニ餅ヲ搗キ、山ノ神ヲモ祭ルナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月20日 蛭子講が行われる。
内容は正月20日の蛭子講と同じだ。
10月には、神様が出雲大社に行かれるので、
この月を神無月と言う。
ただし、蛭子と竃神、山ノ神は出雲に行かず、
留守番をしているので、蛭子をお祭りするだけでなく、
餅をつき、山ノ神様もお祭りする。
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陰暦10月15日  新酒の値段を決める

2008年01月10日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月15日の項には、
次のような記述があります。

十五日 酒造家仲間集會、新酒ノ價ヲ定ム。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月15日 酒造りをしている者たちが集まりを持ち、
その年の新酒の値段を決める。
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陰暦10月  玄亥  亥の子祭り

2008年01月09日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の
陰暦10月の玄猪(玄亥)の項には、
次のような記述もあります。

玄猪 刈上ゲヨリ上ニアレバ、武家勝、百姓負トス。
九日ヨリ下ニアレバ、百姓勝、武家負ケトイフ。
玄猪ニハ餅ツカズ。
是日ノ晩ニ童子、手頃ナル石ヲ荒縄ニ結付ケ、
地上ヲツク。築礎ノ如ク、
一齊ニ唱ヘテ、
「ゐのこの晩に祝はんものは鬼んめ蛇んめ」
ト街上ニ囃シ戯ムル丶アリ。
是ハ安藤家ノ足軽以下ノ童男ノ戯レナリシトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

玄猪 10月最初の「亥」の日
この「玄亥」の日が「刈上げ」祭りが行われる10月9日より前であれば、
武家の勝ち、百姓の負けとする。
9日より後であれば、百姓の勝ち、武家の負けとする。
玄猪には、餅はつかない。
この日の晩、子どもたちが程よい大きさの石を荒縄に結び付け、
胴突きのように地上を突いて歩く。
その際、子どもたちは声を揃え、
「亥の子の晩に祝わん者は、鬼んめ、蛇んめ」
と囃し立てる。
これは安藤家家臣の足軽以下の家の子どもたちが
戯れに行ったものと言われている。

なお、「玄亥」「亥の子」というのは、
物の本には、次のように説明されている。

旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事。
「玄亥」「玄猪」「亥の子」の祝い」「亥の子祭り」とも。
主に西日本で見られる。
この日に亥の子餅を作って食べ、万病除去、子孫繁栄を祈る。
また、子どもたちが地区の家の前で
地面を突いてまわることも行われる。
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陰暦10月10日  もながし祝い

2008年01月08日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

小兒、痘瘡ヲ首尾能ク済(スマ)セタル時、
もながし祝トイフ事ヲ為ス。
是ハ昔日、種痘ノ發明モナカリシ故ニ痘瘡ヲ以テ
小兒ノ一大厄トシ、めゝ定メ、命定メナドイヒシ事ナレバ、
無事ニ済ミシハ此上モナキ幸福トシ、
餅搗キ祝ノ賑、大方ナラズ。概ネ熊野講ト同様ナリ。
熊野講ノ事、五月二十三日ニ詳カナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

天然痘(痘瘡、瘡瘡)に罹った子どもが病気から回復した際には、
「もながし祝」というお祝いをした。
かつて、種痘(天然痘の予防接種)がなかった時代には、
天然痘は子どもの命を危うくする大病で、
これに罹っても無事済めば、大喜びをし、お祝いに餅つきもした。
その際の餅つきは相当な賑わいで、
熊野講の餅つきに匹敵するものだった。
熊野講については、この本(『磐城誌料歳時民俗記』)の
5月23日の項に詳しく記載した。
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陰暦10月10日  しはぶき婆

2008年01月04日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

大ナル草履ニハ茶ヲ紙ニ包ミタルト、とうがらしトヲ插ム。
是ハくつめきヲ流行サスルしばぶき婆ヘノ供物ナリトゾ。
江戸ニテ杓子ヲ倒ニシ、くつめき無用ト書シ、
入口ノ柱ヘ打付ケオク事アリ。
畧似タル事ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

玄関先に吊るす大きな草履(ぞうり)には、
お茶の葉を紙に包んだものと唐辛子を挟んでおく。
これは喘息(ぜんそく)を流行させると
いわれている「しばぶき婆」へのお供え物だそうだ。
江戸では、杓子を逆さにし、「くつめき無用」と書いて、
入口の柱に立て掛けておく風習があるが、
それとほぼ同じような意味合いのものである。
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陰暦10月10日 小児喘息除けのお呪い

2008年01月01日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

大ナル草履ヲ門戸ニ常ニツリオク家モアリ。
是ハ小兒ノ咳疾、くつめきノ禁厭(マジナイ)トゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

大きな草履(ぞうり)を門口に
一年中吊り下げておく家もあるが、
これは小児喘息(ぜんそく)にかからないための呪いだ。
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