『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

虚空蔵詣り  十三詣り

2007年03月30日 | 歴史
3月13日は虚空蔵様の縁日で、
いわき市平の塩に鎮座する虚空蔵様にも
多くの参詣者が訪れるということを前回取り上げた。

虚空蔵様は、私たちに福徳と知恵を授けてくれる仏様で、
数え年で13歳になった子どもが、ここに参拝すると、
一生の間に必要な福徳と知恵を与えてもらうことが
出来るとも信じられている。
それゆえ、虚空蔵様の縁日は親子連れの参拝者で、
大変な賑わいとなったのだろう。

そういえば、虚空蔵様が授けてくれるのは
福徳と知恵だけではなく、
勇気も与えてくれると聞いたことがある。
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芋田楽の祭り  平・塩の虚空蔵尊

2007年03月29日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』に、
次のような記述がある。旧暦3月13日に行われる、
いわき市平(たいら)塩(しお)の虚空蔵尊(こくぞうそん)の祭りについての
記述である。

十三日 城東十三甼許、塩ノ村虚空像、
縁日ニテ昨夜ヨリ參詣アリ。太ダ賑カナリ。
商人小屋ガケニテ、多ク里芋ヲ串ニ貫キ、味噌ヲ塗リ、焼キタルヲ賣ル。
故ニ、芋田楽ノ祭リトイヘバ、此ノ縁日ノ事ナルヲ知ルトゾ。
虚空藏ハ運慶ノ作ニテ、白土将監隆信ノ護持佛ナリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦の3月13日、この日は磐城平城の東、
1.3キロメートルほどの所にある平塩ノ村の虚空蔵尊の縁日だ。
宵祭りに当たる前夜から多くの参詣人が訪れ、大変な賑わいを見せる。
商人たちは仮設の小屋を作り、そこで、里芋を串に刺し、
味噌を塗りつけ、焼いたものを売る。
そのため、虚空蔵尊の祭りは「芋田楽の祭り」とも呼ばれている。
御本尊の虚空蔵尊は運慶の作で、白土将監隆信の護持仏である。
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雛祭り その2 雛人形は人形(ひとがた)

2007年03月28日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』には、
前に紹介した桃の節句の記述に続けて、次のような記述もある。

舊事記ニ、敏達天皇二年正月、侍従、進雛像。
又、源氏物語ニモ、元日ひゐな遊ノ事見ヘタレバ、
雛ノ事ハ、古昔ヨリアリシ事ナリ。
惟、是日ヲ以テ雛祭トシ、女兒節ト為ス事、何時ニ起リシヤ、詳カナラズ。
骨董集ニ、諸書ヲ引キテ、天正以後ノ事トセリ。
國朝佳節録ニ、三月三日、兒女制紙人為、翫者贖物(あがもの)之義乃祓具也
トアリ。
サレバ、上巳ニ人形ヲ贖物トシ、
之ヲ川ニ流セシ古キ祓ヒ事ニ基キ来リシモノト見ユ。
故ニ、雛祭リト唱フルニヤ。
支那ニテハ、端午ヲ女兒節ト為ス。
帝城景物畧曰ク、五月一日至五日、
家々妍飾小閨女、簪以榴花、曰女兒節ト見ユ。

桃の節句に飾られる雛人形の歴史や意味合いについての記述だが、
なかなかに興味深いことが書かれている。
これらをまとめると、
雛人形というものは、元来、
私達の身に付いた穢れを祓うための人形(ひとがた)であったようだ。
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土蔵づくりの店 いわき市平二町目 

2007年03月27日 | 歴史
いわき市平二町目、大一屋さんの土蔵づくりの店。
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土蔵づくりの店 いわき市平新川町

2007年03月26日 | 歴史
いわき市平の本町通りを南に折れたところに
新川町がある。
そこにも漆喰が綺麗な土蔵づくりの店がある。
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土蔵づくりの店 いわき市平五町目

2007年03月25日 | 歴史
(旧・釜屋 土蔵づくりの店 いわき市平五町目)

いわき市の平には、土蔵づくりの店が多い。
これはかつて、この町が
大火に襲われたことに由来しているのかも知れない。
それから、当時は、このような立派な建物を造れるだけの資力にも
恵まれていたのだろう。

しかし、まちが歩んだ歴史や
かつての町の勢いを伝える土蔵づくりの店が
この頃になって急速に失われつつある。

そんななかで、イラストの旧釜屋の土蔵づくりの店は、
近頃、改装が施され、魅力的な空間に生まれ変わり、
未来に残されることになった。
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新暦・旧暦 桃の節句

2007年03月24日 | 歴史
桃の節句も、端午の節句も、七夕も、
現在では新暦で行われることが多い。
でも、新暦の端午の節句に柏餅を作ろうとすると、
柏の葉はまだ芽吹いたばかりぐらいで、
柏餅を作ることはできない。
しかし、旧暦の端午の節句の頃になると、
柏の葉は青々と大きくなっており、香り豊かな柏餅を作ることができる。

ところで、今年の旧暦3月3日の桃の節句は新暦の4月19日に当たる。

大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』には、
桃の節句について、次のような記述がある。

三日 邦俗、是日ヲ女兒節トナス。
昨年重三以後ニ生レタル女子アレバ、
初節供(はつせっく)トテ祝フナリ。
蓬(よもぎ)ノ餅ヲ搗(つ)キ、之ヲ菱形(ひしがた)ニ切リ、
雛棚(ひなだな)ニ供ヘ、又、縁家、懇意ノ者ヘ配贈ス。
蓬草(よもぎ)ヲもち草ト称ス。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

旧暦三月三日は桃の節句、雛祭りだ。
前年の重三の日、つまり、「三」が二つ重なる三月三日以後に
生まれた女の子がいる家では初節句を祝う。蓬餅を搗き、
これを菱形に切り、お雛様に供え、
また、親類縁者や親しい人たちに贈る。
蓬草を餅草とも呼ぶ。

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江戸時代の桜の名木  いわき編

2007年03月23日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』に、
次のような記述がある。
いわき地域の、江戸時代の桜(3本の枝垂れ桜)の名木についての記述だ。

百四十年許(ばかり)前ニ我郷ノ櫻花ヲ筆記セシモノニ、
諸士居處ノウチ、櫻甼(さくらまち)三株ノ線櫻アリ。
大廿四囲、高三丈ニ過ギズ。枝二重ニ垂レテ、行人ノ頭ヲ遮ル。
枝ノ覆フ處、南北六間餘、東西八間餘。
獨立端嚴、荘麗ニシテ神アルガ如シ。
花時、珠玉ヲ飾リテ、巧ニ作リナセルカト疑ハル。
斯ル櫻ハ諸國ニモ希ナルベシ。
神谷村(かべやむら)住善寺ノ庭中ニアル一株ノ垂櫻ハ、
高一丈四、五寸、枝四方ニ覆ヒ垂テ、地ニ曳ク。
覆フ所南北十四間餘、東西十間餘。
其東、一山寺(いっさんじ)ニモ垂櫻二株一所ニ並立シ、
枝ノ覆所南北十一間餘、東西八間餘。
花時、遊人、寺ヲ借リ、宴ヲ開キ、賞翫ス。
然モ端荘艶麗ナル、櫻甼ノ櫻ニ及バズトアリ。以上。
櫻甼、住善寺ノ櫻ハ、今朽ツル久シ。一山寺ノ櫻モ大ニ老タリ。
赤井蕐龍院ノ櫻ナドハ後勁ト称スベキカ。

漢字とカタカナで書かれた筠軒の文章は、やや難解だが、
現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

今(明治25年 1892)から140年ぐらい前に、
いわき地域の桜について書き記されたものがある。
その中に平の桜町の3株の枝垂れ桜のことが書いてある。
枝が二重に垂れ、南北10メートル、東西15メートルほどに広がっている。
その見事さは独立端厳、壮麗にして、神が宿っているかのようだ。
そして、花も宝石を飾りつけたような美しさである。
このような素晴らしい桜は全国的にも稀であろう。
また、神谷村の住善寺の庭にも1株の見事な枝垂れ桜がある。
さらに、その近くの一山寺にも見事な枝垂れ桜がある。
花の季節になると、花見客が寺を借り、宴を開き、
その美しさを愛でるという。
しかし、これらは桜町の桜にはかなわないという。
桜町と住善寺の桜は、今は朽ち果ててしまった。
また、一山寺の桜も既に大変な老木となった。
赤井の華龍院にも見事な桜があるが、まだまだそれらには及ばない。

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春遊山 高木誠一の記録

2007年03月22日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
『磐城誌料歳時民俗記』に書き記した若者たちによる「春遊山」については、
高木誠一(1887年~1950年)も書き記している。
2人の表現にニュアンスの違いがあるのが面白い。
以下、高木の『石城北神谷誌』の「遊山、山の神講」の項の一部を引用する。

 若者組の樂みは何と云つても、七月の盆踊と鎭守の祭禮、
さては春の遊山、秋の山の神講である。
春は二月、新入者もあり、世話人もたちかはつた後、
秋は十月、麥播も終り、秋の収穫もすんで、仕事も片付いてから、
毎年廻り番で宿をして、
三日四晩位づヽ山の神様を祭り、牛飲馬食して樂んだ。

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春遊山

2007年03月21日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』に、
次のような記述がある。
かつて盛んに行われていた「春遊山」、
つまり、花見についての記述だ。

二、三月ノ間 春遊山(はるゆざん)トテ、
若キ輩(ともがら)ノ遊宴アリ。又、日遣(ひやり)トモイフ。
平生、親キ友、假設(たとえ)バ、三十人アレバ十五人ヅヽ分レ、
互ニ賓主(ひんしゅ)ト成リ、招キアヒ、酒食ヲ饗応シ、
醉(よい)ヲ盡(つく)シ、歡(かん)ヲ極ム。
八、九歳ヨリ十四、五歳ノ童子モ、其友ドチ相応ニ米銭ヲ持寄リ、
遊宴ヲ設ク。
今日ハ何某(なにがし)ノモトノ日遣、
明日ハ誰方(だれかた)ノ春遊山トテ、村里賑シ。
余云フ、親戚ノ饗応、多ク正月ナリ、一年ノ始メノ月ナレバ、
情誼ニ於テ然ルベキ事ナレドモ、
歳初ハ男女互ニ親戚ノ家ニ往来シ、饗応モ多キ月ナレバ、
寧(むし)ロ、二、三月頃、天氣和暖、
鳥啼、花開ノ時ヲ待テ饗宴ヲ設ル方、心モ長閑(のどか)ニテ、
興(きょう)モ多カルベシト思ハル。

これを眼代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

陰暦の2月から3月にかけて、
「春遊山(日遣)」という若い者たちによる宴が催される。
親しい者同士が互いに招き、招かれ、宴を催し、酒を酌み交わし、
御馳走を食べる。
8、9歳から14、5歳ぐらいの子どもたちも米やお金を持ち寄り、
宴を催す。この時期、数多くの宴席が開かれ、村里は大変な賑わいとなる。
年の初めにあたる正月は、親戚の付き合いなどに時間を取られ、
親しい者同士がゆっくりと時間を過ごすのは難しい。
正月が過ぎ、2月や3月になると、暖かくなり、鳥がさえずり、桜が咲く。
そんな頃合いを待って、親しい者同士が互いに誘い合い、集い、
ゆっくりと楽しい時を過ごそうと、この時期に宴が催されるのであろうと、
私(筠軒)は考えている。

桜の季節、私も宴に誘われることが多い。
しかし、それは野外の桜の花の下での宴ではなく、室内での宴で、
桜の美しさを愛でることなどは皆無で、
私はただの酔っ払いになるだけだ。
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