『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦10月10日 流行り病除け

2007年12月30日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

門戸ニ杉葉ヲ插ム。
此家ハ病ハヤすぎタリトイフ心トゾ。」 
又、病難災難除トテ竹枝ニ繪馬ヲ十モ、
十五モ結付ケ、門戸ニタツ。
絵馬ノ事ハ初午ノ条ニ記ス。」

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

流行り病を避けるため、
門口や玄関などに杉の葉を挿んだりもする。
これは「この家では、もうすでに流行りは行き過ぎた」
という駄洒落のようなまじないである。
また、病気や災難除けとして
竹の枝に絵馬を10枚も、15枚も結びつけ、
門口や玄関に立てたりもする。
絵馬に関することがらについては、
本書『磐城誌料歳時民俗記』の初午の項に記してある。
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陰暦10月10日 病よけ  三日正月

2007年12月28日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

疫癘、流行病アルトキハ、
里々ニテ病除ノ祈祷スルニツキ、
臨時ニ三日ノ遊ビヲ為シ、
家々棚ノ端ナドニ松ヲ結付ケ、
假ニ正月ノ模(かた)ヲナス。
之ヲ三日正月トイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

疫病や流行り病の際には、
村々で病気除けの御祈祷をし、
三日、農作業を休みにする。
各家では神棚の端などに松を飾り、
お正月の真似事のようなことをする。
これを「三日正月」と呼んでいる。
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陰暦10月10日  無常講

2007年12月17日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

十日 無常講ノ會合アリ。此連中ハ死亡ノ者アル時ハ、人々忌避スル正、五、九月ト雖モ、親疎ヲ問ハズ、走セ集リテ、互ニ助ケアフベシトノ約ヲナスナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月10日 無常講の会合が行われる。
無常講というのは、
講の仲間の家で死人が出た時には、
他の人々が忌み嫌う正月(年の初めであるため)や
五月(田植えの時期で忙しいため)、
九月(稲刈りの時期で忙しいため)でも、
親しい親しくないの分け隔てなく、集まり、
互いに助け合って葬式を行うというものである。

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陰暦10月10日  鍬からき

2007年12月11日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

十日 「鍬からき」トテ、五、七人ヅヽ思ヒ々々ニ集リ、酒食ヲ饗ス。是ハ耕作ノ鋤鍬ニテ思ハズ殺セル土中ノ虫ノ供養ナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月10日 「鍬(くわ)からき」といって、
五、七人ずつ思い思いに集まり、
酒を飲み、御馳走を食べる。
この「鍬からき」という習俗には、
農作業のなかで鋤(すき)や鍬(くわ)などで
知らず知らずのうちに殺してしまった
土の中の虫たちへの供養の意味が込められている。

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結(ゆい)

2007年12月06日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月9日の項には、
次のような記述があります。

是月ハ最モ短日ナリ。
我郷ノ諺ニ、「十月中の十日に心ない者とゆひするな」トイフ。
ゆひトハ手間替リスル事ニテ、
延喜帝ノ御詠ニ
「此里にゆひする人のなきやらん
ふしたつまでに早稲とらぬは」
トアレバ、ゆひハ古言ニコソ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

今月は1年の中でも、最も昼間の長さが短い月だ。
いわき地域のことわざに
「10月中旬の10日間は不心得者とはゆひ(結)をするな」
というのがある。
「ゆひ(結)」というのは、
互いに労力を提供し合い、助け合うことで、
延喜帝の和歌にも
「この里に結する人のなきやらん
節立つまでに早稲とらぬは」
という作品があり、
「ゆひ(結)」という言葉が
相当に古いものであることが知れる。
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稲扱き(いねこき)

2007年12月05日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月9日の項には、 
次のような記述があります。

九日 枕友ニ云フ、稲コキ、女一日ニ十八束程ヲ上手トス。稲麦トモニ六手ヲ一把トシ、六把ヲ一束トス。雇賃一日四度ノ賄ニ、四度賄トハ、朝昼晩ノ三食ニ、晝晩ノ間ノ小晝飯ヲ加フルナリ。黒米三升ナリ。刈上ゲヲ過グレバ、黒米一升五合ニ減ズ。雇ハルヽ者多クナル故ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月9日 江戸時代の宝暦年間に、 
吉田定顕が書き記した『磐城枕友』に、
次のような記載がある。
稲扱き作業では、
1日に28束ほどの稲扱きが出来る女性を上手とする。
稲も、麦も、6手を1把と数え、6把を1束と数える。
人を頼む際の報酬は
1日に4回の食事を食べさせ、それに玄米3升を与える。
刈り上げが終わると、報酬は玄米1升5合になる。
田の仕事が終わり、雇われに出る人が多くなるからである。
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