『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦12月  山伏の寒行

2008年03月31日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
この時期、山伏たちが行う「寒行」についてのものだ。

山伏ノ寒行ハ、朝早ク水垢離シテ出ヅ。
其行装ハ白布頭ヲ約シ、避秦(オヒ)ヲ負ヒ、
一歯屐ヲ穿チ、金剛杖ヲ右ニシ、法螺ヲ左ニス。
概ネ、先ヅ大舘ノ湯殿山権現ヲ拜シ、
各神社ヲ廻拜シ、法螺ヲ吹ク。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

山伏の「寒行」は、早朝、水垢離を取ってから、出発する。
その際のいでたちは、白い布で頭を覆い、
避秦(オヒ)というもの(箱型の背負子)を背負い、
一本歯の下駄を履き、
金剛杖を右手に持ち、法螺を左手に持つ。
ほとんどの場合、山伏たちは最初に大舘の湯殿山権現に参拝し、
その後、各地の神社を回って参拝し、
その際、そこで法螺貝を吹き鳴らす。
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陰暦12月 寒中は庚申待を行わない

2008年03月27日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。

寒中ニハ庚申待ヲセズ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

寒中には庚申待を行わない。


庚申講、庚申待は、
今でも、市内各地で行われていますよね。




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陰暦12月 婚姻多し

2008年03月17日 | 伝説
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。

是月ハ婚姻多シ。婚姻ニ用ユル月ハ
二月、四月、六月、八月ト是月ナリ。
正、三、五、七、九、十、十一ノ七ケ月ハ忌ンデ用ヒズ。
蓋シ耦数ヲトツテ、奇数ヲトラズ。
十月ハ神無月ナルヲ以テ用ヒザルナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月に婚姻をする人が多い。
人々がよく婚姻に用いるのは
2月、4月、6月、8月と12月である。
正月、3月、5月、7月、9月、10月、11月には、
あまり婚姻を行わない。
婚姻には偶数の月が良く、奇数の月は良くないようだ。
なお、偶数の月であっても、
10月は神無月であるので婚姻には用いないようだ。
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陰暦12月15日以降  大掃除

2008年03月13日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月15日以降の項には、
次のような記述がある。

十五日ノ後 煤塵ヲ掃フ。
毎家多ク期日ヲ定メテ恒例トス。
然レドモ、風雨ナキ暖日ヲ用ユルヲ可トス。
迎新ノ用意ナレバ、是月、煤除ヲ為スハ勿論ナレドモ、
人家ハシク毎月一回、室中ノ大除掃ヲ為スベシ。
斯クスレバ、年尾ノ煤除モ容易ナルベシ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月15日以降 大掃除をする。
どの家でも決まった日があって、
その日に毎年、大掃除を行う。
しかし、期日にとらわれることなく、
風がなく、雨も降らず、暖かい日に行うのもいい。
年末の大掃除は正月を迎えるためのものだから、
必ずやらなければならないが、
出来れば、月に一度の割りで家の大掃除をするのがよい。
そうしておけば、年末の大掃除も楽だ。


 はい、おっしゃるとおりです。

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陰暦12月13日 節木樵 せちぎこり

2008年03月08日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の
陰暦12月13日の項には、次のような記述がある。

十三日 節木樵(セチギコリ)トテ祝フ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

陰暦12月13日 お正月に、門松や戸口の傍らに置き、
歳神様にお供えする木を山から取って来て、お祝いをする。

ちなみに、節木は歳木、年木、若木、幸い木などともいわれる。
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陰暦12月8日  針供養  疫神山帰り

2008年03月03日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月8日の項には、
次のような記述がある。

八日 針供養、二月八日ニ同ジ。是日ハ疫神山ヘ退キ入ル日ナリトテ、餅ヲ搗キ遊ビテ、山野ヘ出デズ。二月八日ニハ疫神山ヨリ出ヅル日ナリトテ、此時モ野山ヘ出デズ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦12月8日 2月8日と同じように、針供養が行われる。
また、この日は、さまざまな疫神が山に戻る日であるといわれ、
餅を搗き、仕事も休みとなる。
また、野や山への外出もしない。
ちなみに、2月8日は疫神が山から里におりて来る日であると言われており、
やはり、野や山に出ない。
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陰暦12月7日  悪魔よけの籠

2008年03月01日 | 伝説
大須賀筠軒(天保12(1841)~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月7日の項には、
次のような記述がある。

七日 晩ニ目籠ヲ竿頭ニ掛クル事、二月七日ニ同ジ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦12月7日の晩に、籠を竿の先にかけ、
庭先に立てておく。これは陰暦2月7日と同じ。

その陰暦2月7日の項には、次のようにある。

七日 晩ニ悪魔除ケトテ、
長竿ノサキヘめかい籠ヲ載セ、立テオク。
此籠ヲ眼千ニ口一ツト唱ヘ、
妖物ノ恐怖スルモノナリトイフ。
妄誕無稽モ亦甚シ。
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