天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
この時期、山伏たちが行う「寒行」についてのものだ。
山伏ノ寒行ハ、朝早ク水垢離シテ出ヅ。
其行装ハ白布頭ヲ約シ、避秦(オヒ)ヲ負ヒ、
一歯屐ヲ穿チ、金剛杖ヲ右ニシ、法螺ヲ左ニス。
概ネ、先ヅ大舘ノ湯殿山権現ヲ拜シ、
各神社ヲ廻拜シ、法螺ヲ吹ク。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
山伏の「寒行」は、早朝、水垢離を取ってから、出発する。
その際のいでたちは、白い布で頭を覆い、
避秦(オヒ)というもの(箱型の背負子)を背負い、
一本歯の下駄を履き、
金剛杖を右手に持ち、法螺を左手に持つ。
ほとんどの場合、山伏たちは最初に大舘の湯殿山権現に参拝し、
その後、各地の神社を回って参拝し、
その際、そこで法螺貝を吹き鳴らす。
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
この時期、山伏たちが行う「寒行」についてのものだ。
山伏ノ寒行ハ、朝早ク水垢離シテ出ヅ。
其行装ハ白布頭ヲ約シ、避秦(オヒ)ヲ負ヒ、
一歯屐ヲ穿チ、金剛杖ヲ右ニシ、法螺ヲ左ニス。
概ネ、先ヅ大舘ノ湯殿山権現ヲ拜シ、
各神社ヲ廻拜シ、法螺ヲ吹ク。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
山伏の「寒行」は、早朝、水垢離を取ってから、出発する。
その際のいでたちは、白い布で頭を覆い、
避秦(オヒ)というもの(箱型の背負子)を背負い、
一本歯の下駄を履き、
金剛杖を右手に持ち、法螺を左手に持つ。
ほとんどの場合、山伏たちは最初に大舘の湯殿山権現に参拝し、
その後、各地の神社を回って参拝し、
その際、そこで法螺貝を吹き鳴らす。