『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月16日 削掛

2009年08月25日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月16日の項には、
次のような記述もある。

藩士ノ家ニテハ、新ニにわとこの木ヲ削リテ、
其削屑(ケヅリコ)ノ縷ノ如クナルヲ
杖ノ頭ニ残スヲ削掛(ケヅリカケ)トイフテ、
戸口ニ置。
按ニ、享保三年印本ノ年中故事要言ニ、
美濃國泳(クヽリ)宮ノ村ニ削掛ノ事アリ。
是ニテ女ヲ笞(ウツ)事見ヘタレバ、
古ヨリ傳フル粥杖(カユヅエ)ノ遺意ナラン。
安藤家藩士ハ皆美濃ヨリ移リタルユヘ、
此等ノ事モ此ニ移リタルモノカ。

これを現代的な表現に改めると次のようなものになるかと思う。

陰暦1月16日 磐城平藩主、安藤家の藩士の家では、
ニワトコの木の先端部分を薄く削りだし、
それを戸口に立てておく。
享保三年に刊行された「年中故事要言」に、
美濃国泳宮の村に削掛の風習があると書かれており、
この木で女性を叩くとも書かれている。
粥杖の流れを汲む風習なのであろう。
安藤家の藩士は皆、美濃から磐城の地に移ってきたので、
この風習もその際に伝えられたものであろう。
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陰暦1月16日 悔始め

2009年08月21日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月16日の項には、
次のような記述がある。

十六日 老人、寺ヘ念佛ニ入ル。
今日ヨリ凶事ニタヅサハル。
故ニ是日ヲ悔始メトイフ。
正、五、九月ヲ祝月トシテ、
死亡者アルモ、其家ニ行クヲ嫌フ。
就中、正月十五日ヨリ上ニ死者アル時ハ、
人ヲ雇ヘドモ雇ハルヽ者ナシ。
無常講ナル者アリ。
之ヲ助ケ、夜隂竊ニ棺ヲ土中ニオサメ、
十五日ヲ過テ、空棺(カラクワン)ニテ
葬礼ノ式ヲ為スアリ。
逃レ難キ至親ノ者ハ行ク事アルモ、
十五日過グルマデ、我家ヘ帰ラズ。
正、五、九ノ三月ニ當ル亡者ノ年忌アレバ、
前月ニ取越シ、當月ニハ佛事ヲ為サズ。

これを現代的な表現に改めると
次のようなものになるかと思う。

陰暦1月16日 地区の老人たちが念仏を行うため、
寺に行く。
今日から葬式などの凶事を行うことになる。
そのため、この日を「悔始め」という。
正月、五月、九月を祝月とし、
死亡者があっても、その家に行くことを嫌うという風習がある。
そのなかでも特に、
1月15日以前に死人が出た際には、
葬式手伝いを頼もうとしても、それに応じる人がいない。
ところで、無常講という組織があるが、
その者たちは互いに助け合い、
1月15日以前に死人が出た際には、
夜陰に紛れて土葬を済ませ、
1月15日以降に葬式を行うということをする。
1月15日以前に死人が出、
どうしてもその死人が出た家に行かなくてはならなくて、
その家に行った際には、
1月15日になるまで、自分の家に戻らない。
正月、五月、九月に亡くなった人の年忌がある時には、
その前の月のうちに済ませる。
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陰暦1月15日 虫除けのまじない

2009年08月20日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月15日の項には、
次のような記述もある。

十五日 夜半ニ起キ、若水ヲ汲ミ、
小豆粥ヲ煮テ、餅ヲ添ヘ、
年神ニ供ヘ畢ツテ、神棚ノ注連ヲトリ除キ、
之ヲ宅地ノ惠方ヘ納ム。
主人ハ出テ田野ヲ巡リ、
ほういほういト鳥逐ヲ呼テ、暁ニ至ル。
又、宅内ノ注連飾リ、松榊等ヲ皆取リ集メ、
鳥小屋ヘヲクリ、火中ニ投ズ。
宵ニ自在鍵ヘ供ヘタル餅ヲ焼キ、燃木ヲ消シ、
二、三本ヅヽ持チ帰リ、味噌桶近キ所ニ置ク。
蛇ソノ外、惡氣ヲ除ク禁呪(マジナイ)ナリトイフ。
是日ヲ過グレバ、思ヒ思ヒニ若餅披キトテ、
親族ヲ招キアフ事ナリ。

これを現代的な表現に改めると次のようなものになるかと思う。

陰暦1月15日 夜半に起き、若水を汲み、
小豆粥を煮、それに餅を添えて、年徳神に供える。
その後、神棚の注連飾りを取り除き、
屋敷の恵方の方角に当たるところにお送りする。
家の主人は田や畑に行き、
「ほういほうい」と鳥追いの行事をする。
また、正月の注連飾りや松飾りなどを取り除き、
鳥小屋に持って行き、燃やす。
また、この日の夕方、
囲炉裏の自在鍵に供えておいた餅を焼く、
その際に用いた薪の燃え残りを二、三本持ち帰り、
味噌桶の近くに置いておく。
これは蛇などの虫に噛まれないためのまじないや
魔除けのまじないの意味合いがある。
この日以降、
それぞれの家で親族などを招きあい、
若餅開きの祝いを行う。

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陰暦1月14日 四倉の火打合い

2009年08月17日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述もある。
かつて四倉の砂浜で行われていた「火打合い」についてのものだ。

按ニ、火撲合ハ、徃々死傷ノ大害アリ。
安藤家管治以来、之ヲ禁止シタリ。
然モ、管外ハ依然、此ノ戯アリ。四倉村最モ盛ン。
余モ亦曾テ一見セリ。
其氣勢ノ勇猛ナル、兒戯ヲ以テ目スベカラズ。
四倉一小流アリ。街衢ヲ横ギリ、東ノ方、海ニ注グ。
小流ノ東ヲ新甼トイヒ、西ヲ中甼、元甼トイフ。
東西壮丁、沙上ニ群集シ、流ヲ隔テヽ相對ス。
日ノ暮ヲ待ツテ火ヲ揚グ。
吶喊数回、各自火ヲ奮(振)ツテ進ム。
両隊相近クニ及ビ、忽火薪ヲ投出シ、縦横相當ル。
一進一郤電迸リ、螢闘フ。
先隊既ニ疲ル、後隊次デ進ム。
必ズ雌雄ヲ决シテ後、止ム。實ニ一塲ノ火戰ナリ。
闘者皆内ニ帯シ、一衣ヲ外ニス。
火ノ来ル、必ズ背ヲ以テ之ヲ受ケ、回顧シテ返投ス。
或ハ間ルニ石礫ヲ以テス。
火ハ望ンデ避クベク、石礫ハ暗中ヨリ来ル、
殆ド避クベカラズ。
故ニ傷目、折歯ノ害、焦頭、爛額ヨリ多シ。
或ハ謂フ、若シ能ク此輩ヲ統御スル者アリ、
一層ノ繰練ヲ加ヘ、進退指揮セバ、
一團ノ精兵ヲ得ベシ。
無用ヲ轉ジ、有用ト為ス、處置如何ニ在ルノミト。
元亀、天正ノ際、英雄割據、
日ニ戰争ヲ事トスルノ時ニ方リ、此戯ヲ為ス。
决シテ偶然ナラザルベシ。
而モ其餘習、今日ニ及ンデハ、
啻ニ無用無益ノミナラズ、争闘ヲ游戯トシ、
身命ヲ傷損スル野蠻ノ陋習ヲ免ガレズ、
禁止スルニ若カザルナリ。

長いので、以下、要約のみを紹介します。

火打合では死傷者が出た。
江戸時代、安藤家がいわき地域を治めるようになってから、
安藤家の領内では、火打合いが禁止された。
しかし、安藤家の領地外では火打合いが続けられた。
最も盛んに行われていたのは四倉地区だった。
四倉を流れる小さな川を挟んで火打合いが行われた。
砂浜に集まった人々は日暮れになると、
火を焚き、火打合いを始めた。
火打合いは大変に勇壮なものであった。
火打合いでは、火のついた薪ではなく、
石を投げる者がいて、
そのために負傷するものが多い。
練習をすれば、戦いにも応用が可能だ。
しかし、戦国時代ならまだしも、
現在、このようなことをしているのは
無意味なことであり、やめるべきだ。

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大須賀筠軒 『磐城誌料歳時民俗記』

2009年08月15日 | 伝説
大須賀筠軒『磐城誌料歳時民俗記』の
刊本が出版されています。

お問い合わせは
歴史春秋社
(電話0242-26-6567)
まで。

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