『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月14日 四倉の火打合い

2009年08月17日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述もある。
かつて四倉の砂浜で行われていた「火打合い」についてのものだ。

按ニ、火撲合ハ、徃々死傷ノ大害アリ。
安藤家管治以来、之ヲ禁止シタリ。
然モ、管外ハ依然、此ノ戯アリ。四倉村最モ盛ン。
余モ亦曾テ一見セリ。
其氣勢ノ勇猛ナル、兒戯ヲ以テ目スベカラズ。
四倉一小流アリ。街衢ヲ横ギリ、東ノ方、海ニ注グ。
小流ノ東ヲ新甼トイヒ、西ヲ中甼、元甼トイフ。
東西壮丁、沙上ニ群集シ、流ヲ隔テヽ相對ス。
日ノ暮ヲ待ツテ火ヲ揚グ。
吶喊数回、各自火ヲ奮(振)ツテ進ム。
両隊相近クニ及ビ、忽火薪ヲ投出シ、縦横相當ル。
一進一郤電迸リ、螢闘フ。
先隊既ニ疲ル、後隊次デ進ム。
必ズ雌雄ヲ决シテ後、止ム。實ニ一塲ノ火戰ナリ。
闘者皆内ニ帯シ、一衣ヲ外ニス。
火ノ来ル、必ズ背ヲ以テ之ヲ受ケ、回顧シテ返投ス。
或ハ間ルニ石礫ヲ以テス。
火ハ望ンデ避クベク、石礫ハ暗中ヨリ来ル、
殆ド避クベカラズ。
故ニ傷目、折歯ノ害、焦頭、爛額ヨリ多シ。
或ハ謂フ、若シ能ク此輩ヲ統御スル者アリ、
一層ノ繰練ヲ加ヘ、進退指揮セバ、
一團ノ精兵ヲ得ベシ。
無用ヲ轉ジ、有用ト為ス、處置如何ニ在ルノミト。
元亀、天正ノ際、英雄割據、
日ニ戰争ヲ事トスルノ時ニ方リ、此戯ヲ為ス。
决シテ偶然ナラザルベシ。
而モ其餘習、今日ニ及ンデハ、
啻ニ無用無益ノミナラズ、争闘ヲ游戯トシ、
身命ヲ傷損スル野蠻ノ陋習ヲ免ガレズ、
禁止スルニ若カザルナリ。

長いので、以下、要約のみを紹介します。

火打合では死傷者が出た。
江戸時代、安藤家がいわき地域を治めるようになってから、
安藤家の領内では、火打合いが禁止された。
しかし、安藤家の領地外では火打合いが続けられた。
最も盛んに行われていたのは四倉地区だった。
四倉を流れる小さな川を挟んで火打合いが行われた。
砂浜に集まった人々は日暮れになると、
火を焚き、火打合いを始めた。
火打合いは大変に勇壮なものであった。
火打合いでは、火のついた薪ではなく、
石を投げる者がいて、
そのために負傷するものが多い。
練習をすれば、戦いにも応用が可能だ。
しかし、戦国時代ならまだしも、
現在、このようなことをしているのは
無意味なことであり、やめるべきだ。

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