『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

「じゃんがら念仏」禁止令

2006年07月31日 | 歴史
大須賀筠軒(1941年~1912年)が
『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、
「県治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ」
と述べたことについては、前回紹介したが、
明治6年(1873)1月に出された「じゃんがら念仏」禁止令の内容は、
次のようなものだった。

磐城国ノ風俗、旧来念仏躍ト相唱ヘ、
夏秋ノ際、仏名ヲ称ヘ、
太鼓ヲ打、男女打群レ、夜ヲ侵シテ遊行シ、
中ニハ如何ノ醜態有之哉ノ由、
文明ノ今日有間敷、弊習ニ付キ、
管内一般本年ヨリ右念仏躍禁心申付候条、
少年児女ニ至ル迄兼テ相達置可事。
明治六年一月

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

以前より磐城国では、念仏踊りということで、
夏から秋にかけ、仏名を唱え、太鼓を叩き、
男女が群れをなし、夜遅くまで遊び歩き、
なかには公序良俗を著しく乱す行為に及ぶ者もあるようだ。
明治という文明の今日において、
そのような行為はあってはならないものであり、
本年より念仏踊りを禁止する。
子供についても同様であるので、よく言い聞かせておくように。

明治6年の禁止令によって、
いわきの「じゃんがら念仏」は一時、その勢いをそがれたが、
「じゃんがら念仏」を深く愛していたいわきの人々は
それを忘れ去ることが出来ず、
大須賀筠軒が
「今ヤ稍々旧ニ復スル模様ナリトゾ」
と書いているように、明治時代の中頃までには、
「じゃんがら念仏」は息を吹き返したようだ。
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禁じられた「じゃんがら」

2006年07月30日 | 歴史
「じゃんがら」について、
大須賀筠軒(1941年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、次のようにも述べている。

此ぢやんがら念仏ハ、独リ盂蘭盆ノ節ノミナラズ、
各神社仏閣ノ宵祭リニモ躍ル。
或ハ開帳、入仏供養、大般若会等ニモ躍ル。
領主ノ法事執行ノ時モ、其菩提寺ニ来リ、堂前ニテ躍ル。
当坐ニ酒肴ヲ賜フ。但、盆中ト宵祭ノ外ハ、
男女粧ヲ異ニスル如キ醜態ハナカリシ。
県治以来、其弊害アルヲ察シ、禁ゼラレタリ。
今ヤ稍々旧ニ復スル模様ナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

「じゃんがら」はお盆の時だけに踊られるのではなく、
神社仏閣の宵祭りや開帳、入仏供養、
大般若会などの時にも踊られることがある。
また、領主の法事の際などにも、その菩提寺で踊られ、
「じゃんがら」の一行に酒や御馳走が振る舞われる。
しかし、踊りの輪に加わる者たちが男装をしたり、
女装をするなどのパフォーマンスの限りを尽くすのは、
お盆と宵祭りの時だけである。
明治6年(1873)、「じゃんがら」は公序良俗に害をなすとか、
近代化した文明社会に相応しくない
との理由から禁止されてしまった。
しかし、一旦禁止された「じゃんがら」ではあったが、
現在(明治25年(1892)頃)では、
以前のようなかたちのものに戻りつつある。
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「じゃんがら」はパフォーマンスの渦

2006年07月29日 | 歴史
「じゃんがら」について、
大須賀筠軒(1941年~1912年)は
『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、
次のようにも述べている。

其中、男ニシテ、女粧スル者アリ。
女ニシテ、男粧スル者アリ。
或ハ、裸体ニシテ犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ビ、
後者モ亦端ヲ尾垂スルアリ。
或ハ、菰莚ヲ鎧トシ、蓮葉ヲ兜トシ、
箒、檑木等ヲ以テ大小刀トシ、仮面ヲ蒙リ、武者ニ扮スル者アリ。
務テ新ヲ競ヒ、笑ヲ釣ル。
其醜態、目スルニ忍ビザルモノアリ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

「じゃんがら」の踊りの輪の中には、
女装している男もおり、また、男装の女もいる。
また、裸になり、自分の褌と他人の褌と結び、
一緒に「じゃんがら」を踊っている者もいる。
さらには、鎧の代わりに菰や莚を身につけ、
蓮の葉を兜に見立て、箒や擂り粉木棒を大小の刀の代わりにし、
仮面をかぶり、武者に扮装して踊る者もいる。
このようにして人々はパフォーマンスの斬新さを競い、
笑いを誘うことに躍起となる。
なかには度を超してしまい、
見るに忍びないような有り様の者たちもいる。

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「踏舞スル者」がいる「じゃんがら」

2006年07月28日 | 歴史
江戸時代の「じゃんがら」について、
大須賀筠軒(1941年~1912年)は、
『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、さらに次のようにも述べている。

踏舞スル者、之ニ雑リ、皷者ヲ環リ、鱗次、輪行ス。
鉦皷ニ緩急アリ。其急ナルヤ、走馬燈ヲ観ル如ク、
張三李四、手ヲ振テ走ル。
其緩ナルヤ、一斉ニ唱ヘテ曰ク、
なァーはァーはァー
なァーはァーはァー
めェーへェーへェー
めェーへェーへェー
媚舞巧踏、手ヲ拍テ、節ヲ為ス。
所謂、じんくおどりニ類似シテ非ナルモノナリ。

漢字とカタカナによって書かれたやや難解な文章を現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

「じゃんがら」は太鼓を叩く者と、
鉦を叩く者とによって踊られるが、
それ以外に「踏舞する者」、
つまり、太鼓も鉦も持たず、ただ踊りを踊るだけの者たちも、
「じゃんがら」の輪に加わる。
これらの「踏舞する者」たちは、
太鼓を叩く者たちの周囲を廻りながら踊り続け、
踊りの輪を幾重にも増やしていく。
太鼓や鉦のテンポには緩急がある。
テンポが速いところでは、走馬燈のように目まぐるしく、
手を振り、アップ・テンポに踊る。
また、テンポが緩やかになると、皆が一斉に、
「なァーはァーはァー、なァーはァーはァー、
めェーへェーへェー、めェーへェーへェー」
と歌いながら、艶やかに踊り、手拍子を打ち、節を付ける。
これは甚句踊に似たものではあるが、異なるところもある。

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男女環列の「じゃんがら」

2006年07月27日 | 歴史
いわきの「じゃんがら」について、
大須賀筠軒(1941年~1912年)は
著書『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、次のようにも述べている。

ぢやんがら念仏トハ、即念仏躍ニテ、男女環列、
鉦ヲ敲キ、皷ヲ撃ツ。
皷者、両、三人、中央ニアリ。
白布頭ヲ約シ、袖ヲ括ル。
之ヲ白鉢巻、白手繦トイフ。
皷ヲ腹下ニ着ケ、頭ヲ傾ケ、腰ヲ屈メ、撥ヲ舞シ、曲撃ス。
鉦者、数名、打粧、皷者ニ同ジク、
鉦架ヲ左肩ニシ、丁字木ヲ以テ摩敲ス。
皷ノ数ヲ幾からトイヒ、鉦ヲ敲クヲきるトイフ。

これを現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

「じゃんがら」は念仏踊りの一種で、
男女が輪になったり、列になったりして踊るものである。
また、その際、鉦や太鼓を用いる。
太鼓を叩く者の数は2人か、3人で、輪の中央に位置する。
白い布で頭を縛り、袖をたくし上げる。
この出で立ちを「白鉢巻、白手繦」という。
太鼓は腹の下の方に付け、頭を傾け、腰を屈め、
手に持った撥を巧みに使い、舞を舞っているような仕草で太鼓を叩く。
また、鉦を叩く者の数は数人で、出で立ちは太鼓と同じである。
鉦を左肩から提げ、「丁字木」という撥で、こするようにして叩く。
太鼓の数を数える時には、
「ひとがら」「ふたがら」と数え、鉦を叩くことを「きる」という。

先に取り上げた高木誠一の文章のなかにもあったが、
大須賀?軒もやはり、「じゃんがら」は、男も、女も、
皆がその輪に加わって踊っていたと言っている。
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まちは火の海「じゃんがら念仏」

2006年07月26日 | 歴史
大須賀筠軒(1841年~1912年)は、
江戸時代の「じゃんがら念仏」の様子を,
その著書『磐城誌料歳時民俗記』のなかで、
『磐城枕友』(吉田定顕著 江戸時代の宝暦年間に書かれた)を引用し、次のように紹介している。

盆中 村里ヨリ、鉦、太皷ニテ、老若男女打交リ、
十四、五ツレテ、城下ニ来リ、神社、仏寺ヲ廻リテ、念仏躍スル。
町家、新盆ノ家ノ前ニテ躍ル。
又、呼入テ、念仏サスル家モアリ。
町々ヲ廻リ、夜深テ村里ヘ帰ル。
若輩ノ男子ハ鉦太皷打鳴シ、十王堂十ケ所ヲ巡ル。
之ヲ十十王申ストイフ。枕友。

漢字にカタカナ交じりで書かれた文語調の文章は、
やや取っ付きにくいところがあるが、
現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

お盆になると、近くの村々から、
鉦や太鼓を携えた「じゃんがら念仏」の一行がたくさんやってくる。
そのなかには年老いた者も、若い者も、また、男も、女もおり、
ひと組の人数は14~15人ほどである。
「じゃんがら念仏」の一行は、
磐城平城の城下にやって来て、神社や仏閣を廻り、
そこで念仏踊りを踊る。
また、商家や新盆に当たる家の前でも念仏踊りを踊る。
なかには、一行を家の中に呼び入れ、念仏踊りをさせる家もある。
一行は城下の町々を廻り、夜遅くになって、ようやく村里へ帰る。
青年たちの「じゃんがら念仏」の一行は、
磐城平城下にある10か所の「十王堂」を巡り歩くが、
これを「十十王申す」と呼んでいる。(『磐城枕友』より引用)。

お盆の期間中、
近くの村々から、たくさんの「じゃんがら念仏」が押し寄せ、
また、それを見物しようと
大勢の人たちもまちに繰り出し、
まちはごった返しとなった。
これらの人々が作り出す熱気の渦と、
家ごとに焚かれる盆の迎え火、送り火とが相俟って、
磐城平城下は火の海のようになったという。

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女性も一緒に「じゃんがら」

2006年07月25日 | 歴史
柳田国男の教えを受け、
いわきの地に民俗学の種を蒔いた高木誠一(いわき市平北神谷生まれ、1887年~1955年)は、
「じゃんがら」を次のように紹介している。

「ジャンガラ念佛
磐城の盆踊は、ジャンガラ念仏が第一である。
この念仏は若衆組でも踊るので、仏宇の縁日、
又は新盆の家を廻って踊るのである。
先づ、この踊の始めは円形になり、
円形の中央には、頸から緒をたれた直径一尺五寸程の長形の太鼓をぶらさげ、
先端に白い毛の附いた七寸程の撥を両手に持ち、
鉢巻、襷がけの太鼓打が二人、乃至、三人入る。
この太鼓打が太鼓を打始めると、其太鼓に和して、
円形の者は頬冠をして、伏鐘をチャンキチャンキと打ちながら、
両足を共に振ったり、前後に振ったりして、円形に飛び廻る。
これをカネキリと云ふ。
鐘と太鼓とで踊る踊りがすむと、
太皷打ちの者だけが円内に残って、太鼓をたヽきますと、
今度は女も交って歌を唄って、手踊をするのである。
其文句は頗る妙なもので、
ハーハイ、モーホーホーイ、ワーハーハーイ、メーヘーヘーダー。
ソレナアー、ハーハーハイ、モーホーホーホイ、メーヘーヘーヲサヨー。
ソレナアーハー、ヨーホーホーイ、メーヘーヘーンダハアー。
と唄ふのである。
これは南無阿弥陀仏の名号のかはったのだそうである。

これらの記述のなかで、特に注目したいのは、
「鐘と太鼓とで踊る踊りがすむと、太皷打ちの者だけが円内に残って、
太鼓をたヽきますと、今度は女も交って歌を唄って、
手踊をするのである」という部分だ。
つまり、「太鼓打ち」と「鉦キリ」による「じゃんがら」の
「ぶっつけ」といわれる部分が終わり、
次に「太鼓打ち」が太鼓を叩き始めると、
「じゃんがら」の輪の中に女性たちが加わり、
歌を歌いながら、手踊りを始めるというのだ。
 女性も一緒に踊る「じゃんがら」を今に伝えている地区は、
極めてわずかになってしまった。
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「じゃんがら」はいわきの心

2006年07月24日 | 歴史
腰から締め太鼓をさげた3人の男が中央に陣取り、
アクロバティックな動作で太鼓を叩く。
そして、その周りを「鉦きり」と呼ばれる10人ほどの男たちが取り囲み、
輪をつくり、肩からさげた鉦を叩きながら、ゆっくりと廻る。

腹底にズシンズシンと響く、野太い締め太鼓の音。
耳をつんざき、中空にこだまする凄まじい鉦の音。

「じゃんがら」は、いわきの夏を熱くする。
この「じゃんがら」がいわきに伝えられたのは、
江戸時代のはじめ、1650年代のこと。
その後、350年もの間、
「じゃんがら」は、いわきの人たちに愛され、
この地に脈々と伝えられてきた。

この夏、「じゃんがら」を是非とも見てみたいというのなら、
月遅れで行われる平の七夕の折りに行われる「いわき市青年じゃんがら大会」
(8月6日(日)夕方開催予定)の会場、
または、「じゃんがら」の一行が新盆の家庭を廻る
お盆の8月13、14、15日に見るのがいい。
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