『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

高木誠一著『磐城の民謡・民俗学ノート」

2010年12月25日 | 歴史
いわき出身の民俗学者、高木誠一が
明治時代から大正時代にかけて
執筆した「磐城の民謡・民俗学ノート」(新書判 840円)が
刊行されました。

この本は、高木誠一(明治20(1887)年~昭和30(1955)年)が
書き残した「磐城の民謡」と「民俗学ノート」という
2冊の民俗学関係の調査ノートを活字化したものです。

「磐城の民謡」には、
高木が聞き取った江戸から明治時代に、
いわき地域で歌われていた子守り唄や鞠つき唄、田植唄、
盆唄、鳥追い唄、胴突き唄などが収録されています。

また、「民俗学ノート」には、
高木が現地調査の際などに聞き取った
十九夜講や獅子舞、御日待、山犬、女房岩、
鼻取地蔵、水祝儀、朝日長者、山の神、
三夜様などに関する事柄が
記述されています。

これら2冊のノートは、
いわき地域のかつての民俗事象の記録としての高い価値を持つと同時に、
地域と向き合い、地域に暮らす人々とともに生きた高木誠一の
民俗学の学究の徒としての真摯な姿勢を
私たちに伝えるものになっています。


ご注文は、

平電子印刷所
〒970-8024
福島県いわき市平北白土字西ノ内13

まで、はがきでご注文ください。
その際には、
お名前、ご住所、電話番号
購入書名「磐城の民謡・民俗学ノート」
購入冊数を忘れずに書いてください。

なお、送料が別途160円かかります。
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陰暦12月  寒念仏

2008年04月03日 | 歴史
天保12(1841)年に、
いわきの地に生まれた大須賀筠軒(大正元(1912)年没)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の項には、
次のような記述がある。
「寒念仏」についてのものだ。

寒念佛アリ。同行ヲ催シ、村里ヲ廻ル。
若輩淳蕐ノ同行ハ、鉦ニ笛、太皷、三味線ヲイル。
是ハ佛像、堂宇建立、修覆ノ為メニ米銭ヲ集ムルナリ。
又、七、八歳ヨリ十二歳位ノ子供、寒夜ニ鉦打鳴シ、
其里近ク念佛シ廻リ、夜更(ヨフケ)帰リ、集リテ、
受タル米ヲ粥ニ煮ル。
是ハ小兒ノ游戯、寒念佛ニ倣フナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦12月には、寒念仏が催される。
多くの人たちが集団になり、村々を巡り歩く。
青年たちは鉦や笛、太鼓、三味線を奏でながら、村々を巡る。
これは仏像の造営、修理や、
お寺やお堂の建立、修理に必要な資金を
集めるために行われるものである。
また、7、8歳から12歳ぐらいの子どもたちも、
鉦を打ち鳴らし、村内を念仏を唱えながら廻り、
夜更けに、寄進された米を煮て、粥にして食べる。
これは子どもたちの楽しみごとになっており、
本当の寒念仏ではなく、
それを真似たものである。
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陰暦10月15日  新酒の値段を決める

2008年01月10日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月15日の項には、
次のような記述があります。

十五日 酒造家仲間集會、新酒ノ價ヲ定ム。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月15日 酒造りをしている者たちが集まりを持ち、
その年の新酒の値段を決める。
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陰暦10月10日 流行り病除け

2007年12月30日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

門戸ニ杉葉ヲ插ム。
此家ハ病ハヤすぎタリトイフ心トゾ。」 
又、病難災難除トテ竹枝ニ繪馬ヲ十モ、
十五モ結付ケ、門戸ニタツ。
絵馬ノ事ハ初午ノ条ニ記ス。」

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

流行り病を避けるため、
門口や玄関などに杉の葉を挿んだりもする。
これは「この家では、もうすでに流行りは行き過ぎた」
という駄洒落のようなまじないである。
また、病気や災難除けとして
竹の枝に絵馬を10枚も、15枚も結びつけ、
門口や玄関に立てたりもする。
絵馬に関することがらについては、
本書『磐城誌料歳時民俗記』の初午の項に記してある。
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陰暦10月10日  鍬からき

2007年12月11日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦10月10日の項には、
次のような記述もあります。

十日 「鍬からき」トテ、五、七人ヅヽ思ヒ々々ニ集リ、酒食ヲ饗ス。是ハ耕作ノ鋤鍬ニテ思ハズ殺セル土中ノ虫ノ供養ナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

陰暦10月10日 「鍬(くわ)からき」といって、
五、七人ずつ思い思いに集まり、
酒を飲み、御馳走を食べる。
この「鍬からき」という習俗には、
農作業のなかで鋤(すき)や鍬(くわ)などで
知らず知らずのうちに殺してしまった
土の中の虫たちへの供養の意味が込められている。

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旧暦10月9日 刈上げ祝い 田の神餅開き

2007年11月19日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月9日の項には、
次のような記述があります。「刈上げ祝い」についてのものです。

九日 刈上ゲ祝ナリ。稲ヲ刈収メタル祝トテ、餅ヲ搗キ、熨斗餅ヲ田ノ神ヘ供シ、親類、合壁互ニ贈答ス。家々ノ杵声、節季、正月ニ異ラズ。日ヲ過テ、田ノ神餅ノヒラキトテ、一門互ニ招キアフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦10月9日 この日に「刈上げ祝」が行われる。
稲を無事収穫出来たことを祝い、餅を搗き、
熨斗餅を作り、田の神様にお供えし、
親類や隣近所にも贈る。
家々で餅を搗く賑やかさは、
節季の祝いや正月の際のそれに劣らない。
さらに数日後、「田の神餅の開き」ということで、
親戚の者同士が集まり、再び、お祝いをする。
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旧暦10月1日 十夜念仏

2007年11月13日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦10月1日の項には、
次のような記述があります。

朔日或ハ六日ヨリ十日間、浄土宗十夜念佛アリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦10月1日、あるいは10月6日から10日間、
浄土宗の寺では、十夜念仏が行われる。


ところで、「十夜念仏」という言葉を辞書で調べると、
次のような説明がされています。

浄土宗の寺で、
旧暦10月5日の夜半から15日の朝までの10昼夜の間、
絶えず念仏を唱える行事。
現在は10月12日の夜から15日の早朝までの
3昼夜に短縮されている。
京都の真如堂のものが有名。
お十夜、十夜法要ともいう。

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旧暦9月 カヤの実、ヒウビの実取り

2007年11月09日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。

村里宅邉ニハ多ク榧(カヤ)及ビひうびヲ植ヘテ家圍(ヤガコヒ)トス。其實ヲ拾フモ是月ナリ。榧實ハ一處ニ集堆シ、莚(ムシロ)薦(コモ)ヲ覆ヒ、ひうびハ坎ヲ穿チ、莚席ヲ上下ニ覆フ。之ヲ「ねせる」トイフ。外殻ノ腐爛スル後ヲ待、竹籠ニ内(イ)レ、溪水ニ洗ヒ、敗穀ヲ流シ去リ、晴日ニ暴乾シテ貯フ。ひうびハ岩城ノ土ニテ、他方ニ希ナリ。窄シテ油ヲ採ル。燈ヲ點シ、極メテ明カ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

いわきの各村の家々では
屋敷の囲いにカヤやヒウビを植えていることが多い。
旧暦の9月になると、これらの木の実を拾う。
カヤの実は一か所に集め、筵やこもを被せ、
また、ヒウビは実に穴をあけ、筵で包む。
これを「ねせる」という。
しばらくすると、外側の硬い殻が腐る。
その後、それを竹籠に入れ、清流にさらし、
腐った外側の穀を流し除き、
次にそれを天日で乾かし、貯蔵する。
ヒウビはいわき地域の名産で、他ではあまり見られない。
これを絞り、油を取り、明かりに用いるが、とても明るい。

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旧暦9月 栗拾い

2007年11月01日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月の項には、
次のような記述があります。
栗拾いについてのものです。

是月ハ果實類ノ採拾多キ中ニ、栗拾ヒヲ第一トス。磐城山中、栗樹多シ。栗毬(クリノイガ)罅折(エミ)、其子ヲ落トスヤ、村里ノ老幼男女、毎戸出デヽ拾フ。深山幽谷ノ間、歌唱相応ジ、談笑相聞フ。一人一日ノ拾フ所、少キモノ壱斗左右、多キモノハ四斗前後。或ハ一把ノ團茅(コヤ)ヲ山中ニ假設シ、旬日ノ間、此ニ寝食シテ捃拾スルモノアリ。之ヲ貯フルニ蒸籠(セイロウ)ニテ湯蒸シ、庭上ニ鋪シ、晴日ニ暴乾シ、藁俵ニ納メ、爐上ノ屋梁ニ上ス。十数俵ヲ貯ルモノアリ。亦、凶荒豫備ノ一助ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月には、さまざまな果実の収穫が行われる。
なかでも栗拾いは特筆されるべきものだ。
いわき地域の山中には、栗の木が多い。
栗のイガが割れ、栗の実が地面に落ちる頃合を見計らい、
村里の人々は総出で栗拾いをする。
深い山の中や谷の奥深くまで、人々が分け入り、
歌を歌い、楽しげに言葉を交わしながら栗拾いをする。
1人が1日に拾う栗の量は少ない人でも18ℓぐらい、
多い人は70ℓほどの栗の実を拾う。
なかには山の中に仮設の小屋を作り、
そこで寝食をしながら栗を拾う者もいる。
拾った栗を貯蔵するには、まず、蒸籠で蒸し、
蒸しあがったものを庭に並べて乾燥させ、
その後、藁俵に入れ、囲炉裏の上、家の梁に上げ、貯蔵する。
10数俵の栗を貯蔵しておく家もある。
飢饉や凶作などの際の食糧として、
栗は大変役に立つものである。
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旧暦9月29日 藤原の熊野三社権現祭礼

2007年10月29日 | 歴史
大須賀筠軒(天保12(1841)年~大正元(1912)年)が、
明治25(1892)年に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
ひも解くこととします。
どうぞ、お付き合いください。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の旧暦9月29日の項には、次のような記述があります。

二十九日 城南三里、中藤原村熊野三社権現ノ例祭ナリ。
社ハ延暦二年、紀州熊野三所ヲ勧請セシモノナリトゾ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思います。

旧暦9月29日
磐城平城の南12キロメートル、常磐藤原の熊野三社権現の例祭が行われる。
この神社は延暦2(783)年に紀州の熊野三所を勧請し、ここにお祀りしたものだと伝えられている。
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