天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の節分の項には、
次のような記述がある。
節分 鰮魚(イワシ)ノ頭ト杠谷樹(ヒヽラギ)ヲ門戸ニ插ミ、
鬼打豆ヲ撤スル、他方ニ異ナラズ。
老幼男女トモ豆ヲ数(カゾ)フル、
歳ノ数ノ如クシ、一ヲ加ヘ、
之レニ銭一文ヲ添ヘ、紙ニ包ミ、
疫除(ヤクハラヒ)ニ與フ。或ハ十字街上ニ捨ツ。
疫除ハ街上ヲ走行シ、高ク、御厄はらひませうト呼ブ。
明年、厄年ニ丁(アタ)ル者多ク厄落(ヤクオトシ)トイフヲ為スナリ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
節分 この日には、
イワシの頭とヒイラギの葉を門口や戸口に挿し、
鬼を払うための豆を撒くが、これはいわき特有なものではない。
また、老人も子どもも、男も女も、
自分の年齢よりも一つ多くの数の豆と
銭1文(約20~50円)を紙にくるみ、
「厄払いの者」にあげたり、十字路に置いたりする。
「厄払いの者」は大きな声で
「御厄払ひませう」と叫びながら街中を歩き回る。
来年、厄年を迎える者は「厄落とし」ということをする。
かつては、「厄払いの者」という人がいたらしい。
この人は町内を巡って歩き、
各家庭から豆とお金を預かり、
四辻で鬼を追い払うために
豆撒きをしたらしい。
江戸時代の資料を読んでいると、
節分の行事として、
よくこのような記述がある。
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦12月の節分の項には、
次のような記述がある。
節分 鰮魚(イワシ)ノ頭ト杠谷樹(ヒヽラギ)ヲ門戸ニ插ミ、
鬼打豆ヲ撤スル、他方ニ異ナラズ。
老幼男女トモ豆ヲ数(カゾ)フル、
歳ノ数ノ如クシ、一ヲ加ヘ、
之レニ銭一文ヲ添ヘ、紙ニ包ミ、
疫除(ヤクハラヒ)ニ與フ。或ハ十字街上ニ捨ツ。
疫除ハ街上ヲ走行シ、高ク、御厄はらひませうト呼ブ。
明年、厄年ニ丁(アタ)ル者多ク厄落(ヤクオトシ)トイフヲ為スナリ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
節分 この日には、
イワシの頭とヒイラギの葉を門口や戸口に挿し、
鬼を払うための豆を撒くが、これはいわき特有なものではない。
また、老人も子どもも、男も女も、
自分の年齢よりも一つ多くの数の豆と
銭1文(約20~50円)を紙にくるみ、
「厄払いの者」にあげたり、十字路に置いたりする。
「厄払いの者」は大きな声で
「御厄払ひませう」と叫びながら街中を歩き回る。
来年、厄年を迎える者は「厄落とし」ということをする。
かつては、「厄払いの者」という人がいたらしい。
この人は町内を巡って歩き、
各家庭から豆とお金を預かり、
四辻で鬼を追い払うために
豆撒きをしたらしい。
江戸時代の資料を読んでいると、
節分の行事として、
よくこのような記述がある。