1805年4月7日、ナポレオンボナパルトを讃えるベートーヴェン交響曲第3番「英雄(エロイカ)」完成。
しかし、完成後に即位したナポレオンに対し、所詮奴も俗物であったか!と憤り、讃えた表紙を破り捨てたとか。
量子力学と禅宗が似ていると以前耳にしたことがあります。しかしあくまで素人考えですが、「有ること」を前提とした確率的である前者と「有ること」自体に懐疑的(否定的)な後者の前提の違いに加え、「変化」と「連続」の違いがあげられると考えます。
量子力学を含む物理学は、実数(数直線上で現わせる)による時空的に繋がった線の変化であるのに比べ、禅宗を含む大乗仏教の1部は、瞬間的に「無明」から「老死」までの順序ある12段階が同時に起こり完結する「刹那縁起」である為、時空的に連続する点の「別物」であると考えるから。一期一会なんか考えるとわかりやすいかも。説一切有部なんかでは否定されている考え方ですが。あ、繰り返しますが個人的考えです。
もしベートーヴェンが禅宗的視点を持つのであれば、権力者から庶民を解放したナポレオンと皇帝ナポレオンは別人ですから、過去の彼に捧げたのであれば何の問題もなかったのでしょう。
すると、例えば裁判自体の根拠が失われます。罪を犯した瞬間の被告と、裁かれる被告は別人ですし。
ただ全てのものが常に変化する相互依存相互限定関係にあるのであれば、そこで裁かれることに成るのもまた節理。そこに真実、善悪等ありません。
全ては受動的でしかありません。ボクは逆らいますが。
・・・グーパンでボコボコにしてやりますよ
しかし、完成後に即位したナポレオンに対し、所詮奴も俗物であったか!と憤り、讃えた表紙を破り捨てたとか。
量子力学と禅宗が似ていると以前耳にしたことがあります。しかしあくまで素人考えですが、「有ること」を前提とした確率的である前者と「有ること」自体に懐疑的(否定的)な後者の前提の違いに加え、「変化」と「連続」の違いがあげられると考えます。
量子力学を含む物理学は、実数(数直線上で現わせる)による時空的に繋がった線の変化であるのに比べ、禅宗を含む大乗仏教の1部は、瞬間的に「無明」から「老死」までの順序ある12段階が同時に起こり完結する「刹那縁起」である為、時空的に連続する点の「別物」であると考えるから。一期一会なんか考えるとわかりやすいかも。説一切有部なんかでは否定されている考え方ですが。あ、繰り返しますが個人的考えです。
もしベートーヴェンが禅宗的視点を持つのであれば、権力者から庶民を解放したナポレオンと皇帝ナポレオンは別人ですから、過去の彼に捧げたのであれば何の問題もなかったのでしょう。
すると、例えば裁判自体の根拠が失われます。罪を犯した瞬間の被告と、裁かれる被告は別人ですし。
ただ全てのものが常に変化する相互依存相互限定関係にあるのであれば、そこで裁かれることに成るのもまた節理。そこに真実、善悪等ありません。
全ては受動的でしかありません。ボクは逆らいますが。
・・・グーパンでボコボコにしてやりますよ
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