鹿児島からトカラ列島へ向かう「村営としまフェリー」の終点は奄美大島だ。トカラ馬のいる中之島は鹿児島を出て口之島の次の2番目の島になる。自転車は車両庫の側壁に係員がロープで固定する。
フェリーは月・火と金・土の午後11時に出港し、一番近い口之島には翌朝の5時20分に到着する。乗り越さないよう早めに甲板に出ると口之島港の灯りが日の出のように見えた。
岸壁では赴任してきた先生方を生徒達が吹奏楽で出迎えていた。心温まる光景だった。
各島から鹿児島へ戻るのは奄美大島からフェリーが戻って来るまで最短で2日後になる。海が荒れれば1週間は覚悟しなければならない。
6:20 中之島到着。ここでも勇壮な太鼓による先生方の歓迎式があった。
港から自転車で10分ほどの民宿「なごらん荘」に到着して朝食。島の宿は1泊5食が標準だ。その訳は、島には食堂、商店、コンビニは無いので港から宿に直行して先ずは「朝食」を摂ることになる。
続いて島内見物などして昼に一度戻って「昼食」。再び島内見物に出て「夕食」。翌日の「朝食」を摂ってから11:15の鹿児島行きフェリーに乗船し、弁当の「昼食」ということで"1泊5食"になる。
中之島でただ一カ所の自動販売機。
朝食後に民宿のおばさんに「あそこは高台で坂が急なので自転車は無理じゃない」と言われたトカラ馬放牧地に向かった。北海道には無いジリジリとした日射しを背中に受けて坂を登り切り平坦地を行くと深い森の放牧地でのんびりと草を食むトカラ馬がいた。学生時代から45年、遂に出会った!との思いだった。
鹿児島県の天然記念物で絶滅危惧種のようなこの馬、1952年(昭和27年)に鹿児島大学の先生が日本固有の純粋種として紹介するまで世間に全く知られていなかったという。952年はトカラ列島が日本へ返還された年だった。
奄美大島の隣の喜界島からサトウキビ製造の労力として宝島に持ち込まれたが絶滅し、列島では中之島だけに30頭くらいが展示放牧されていた。ドサンコもそうだが背線と首筋が横一線の和種馬の特徴を示している。
学生時代に初めて教科書の写真を見た時の小柄で黒光りして素朴さと忍耐力を秘めた姿を見て、時間が戻ったような不思議な感覚だった。
日本の稲作は朝鮮半島から九州北部に伝わったというのが定説だが、哲学・思想家の吉本隆明は神話等を重ね、「どちらでもいいことだが」と前置きし、南西諸島から高千穂、さらに適地を求めて大分の宇佐、そして瀬戸内経由で畿内に広がったのではないかとの九州南部伝来説を述べている。
和種馬の分布も九州南部から畿内へと広がり作業使役に伴って北上している。何か通じるものがありそうな気もする。
放牧地の管理人さんはホンジュラス人がご主人の日本人女性で、アメリカで文化人類学と環境学を学んでコスタリカにいた時に募集を知って中之島に来たという。訪ねた時の2年前のことだった。
フェリー到着時に港に向かえに来てくれて民宿への道案内もして下さった。今はどうされているだろうか。
暫しトカラ馬を眺めてから島内巡りに向かった。 (つづく)