ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「神様のカルテ3」「桜は本当に美しいのか」

2014-09-04 09:34:24 | 
「神様のカルテ3」 夏川草介 2012.8.13

軽いけど、軽くない。
やはり、いい感じ。

六年目の医師・栗原一止をはじめ、周りの人々も魅力的。
個性溢れるキャラたちが上手く描かれている。

以下、引用。

  現実という非常な化け物に立ち向かうのに、意志と情熱ほど余計なものはない。
 ただ必要なのは、事実から目をそらし続ける勇気と、何も考えない無我の境地だけなのである。

 この文章は、皮肉やの面目躍如♪

 もとより不自由の大地に理不尽の柱を立て、憂鬱と圧迫の屋根をかけたものが、人生という掘立小屋である。

  人生とは言葉ではない。歩みである。

 生きるってことは、学歴とか肩書きとかを掻き集めていくことじゃない。
 今自分にできることを、少しずつ積み上げていくことだ。

 たとえ華々しい夢や希望がなくとも、行動した、それだけで意味がある。

 彼の息子をはじめ、世間に文句をつけて、
 自分を正当化している人全員に噛み締めてもらいたい言葉だ。

  医者っていう仕事はね、無知であることがすなわち悪なの。

 あの程度のことで、本気でカチンと来た私自身に腹が立ったのよ。

 小幡先生がこの冷たい目を向ける対象は、命を軽んずる全ての人間だということである。
 相手の立場など関係ない。医師であろうと患者であろうと、命に対する真摯さを失い、
 ときに軽んずる者に対して向けられる根源的な嫌悪であり反発であった。

 たとえ1バーセントでも、患者の命を奪う疾患が疑われるなら、我々はそのに百パーセントの
 力を注ぐんです。そして、すべての責任を負うんですよ。

すべての医師が、そうであってほしいと思う。

この巻の最後で、一止は大学病院に行くことにした。
 3巻に続く4巻も期待したい!


「桜は本当に美しいのか」 水原紫苑 平凡社新書 2014.3.14

 副題は--欲望が生んだ文化装置

歌人が問う日本。
美しいと感じるのは自然の情緒なのか
そのように刷り込まれただけではないのか
記紀・万葉から、桜ソングまでを検証する。

「さくら」の語源には、神の座を示す「くら」に、殻霊を表す接頭辞の「さ」が付いたという説と、
動詞「さく(咲く)」に接尾辞「ら」が付いたという説の、二通りがあるらしい。
いずれにしても、桜は、稲作の豊凶を占うための呪的な花だった。
眺める以前に、祈りの花だったのだ。

万葉集に最も多く詠まれた花は萩の141首であり、次は梅の118首。
桜は八位の42首。

祈りの花から眺める花へという流れが明快。
生活に密着した祈りの対象だった桜を、徐々に距離を置いて、花として眺める眼差しの
ためらいや戸惑いを所々に感じる、とある。

桜の文化は、『古今集』によって創造された。
万葉集で、原型はすでに作られていたが、明確に美の規範として打ち立てたのは『古今集』

紀貫之は、歌が公の価値が持つことを主張し、今までに詠まれたさまざまな歌枕を、
普遍的なものとして提示する。
絶対的な王権による美の宇宙を創造ないしは構築し、それによって、人間の意識あるいは無意識までも
支配するシステムを成立。
季節の運行から、喜怒哀楽のすべてを、帝が歌を通して司ることが、明白に記されている。
この美意識は、千年の余も日本の人々を縛り、現在までじゅうぶんに有効。
その核心に桜がある。

満開の桜を農耕の吉兆とする感覚を半ば残していた『万葉集』では、散る桜は心を騒がすものでは
あったが、美を見いだすことには、歌人たちは積極的ではなかった。
『古今集』では、散る桜という、ほとんど新しい美を提示する。

枕草子、源氏、能狂言、、歌舞伎、芭蕉、本居宜長、そして近現代から桜ソングまで、
様々に紐解くが、結論めいたものには至らない。

あとがきの最後の言葉を書いておこう。

折しも、「歴史は繰り返すが、一度目は悲劇、二度目は茶番である」というマルクスの
あまりにも有名な言葉を忠実に実行したいらしく、大根役者たちが下手な見得を切ろうとしている。
とんでもない花吹雪の幕切れになる前に、舞台から引きずりおろさなければならない。
コメント
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