森のようちえん⑤

    

      ( 森のようちえん)が 新しい試みであるわけ。

       (子供は風の子)と言われ子供が自然中で遊ぶのは国を越えて自然であり伝統でもあった。

       遠足・移動教室・自然体験学習・キャンプ・海の学校 などなど意図的に教育としてもなされてきた。

      違いは何か?

           大人が意識して子供を自然に帰してあげていることではないか?

       ( 子供は風の子)は自然であって大人が敢えてその意味を意識していたとは考えにくい。

        学校行事などでの遠足や移動教室は、教室は戸外へと変わるが、教師の指導計画に沿って子供が行動する仕組まれた教師中心の子供の活動であることには教室と基本的に変わり ない。  
  
              (森のようちえん)は子供を森で解き放ち子供中心の活動に意味をおいている。

     どんな教育もある意味で1回きりの実験だが、前者が教師中心、後者は子供l中心しているところで意味が全く異なってくる。

     子供中心かどうかで言えば、屋根があるところでもないところでも良いしが  子供の探索行動を引き出す環境は人為的な場より自然が豊かに持っているはぜである。自然環境のなかで子供中心の活動がいかなる結果を引き出すかがこの実験の要になっている。

     これまでも児童中心は考え方や実践もあるにはあったが、環境が変化する中で実験は新しい意味を持ちそれに応じて

    結果を明らかにすることが求められる。
                   
                 その辺が伝統的な(子供は風の子)や(遊びをせんとや生まれけむ)(よく学びよく遊べ)との違いかもしれない。

         

       

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森のようちえん④    

  

   1年前に(森のようちえん)をはじめて見た時、森の小人を思い浮かべながら1つの保育方法だろうと考えていた。

   しかし、 話を聞くうちに、それが時代や社会が求める新しい壮大な社会実験だと思えてきた。

     子供たちを森に解き放した時の笑顔の中に、笑顔にならざるを得ない科学性、論理性、法則性があるはずで、 実験はそこを明らかにすることも大切である。                

   この(時代の要請に応じた実験をする)に至ったこれまでの地道な努力に敬意を払うと共に実験の成功を願ってる。

 

  

 

     

   

   

    

 

   

 

       

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森のようちえん③ 

   この仮説実験は当たり前の仮説に基づいた実験だが実際にはほとんど目にすることのない新しい試みで、大きな意味を持つ社会実験だと思う。

    この時代、特に日本やこの街で歴史ある法人がこの社会実験をするに至った意味も大きい。

     この法人とは30数年来のお付き合いだが、多くの人の地道な努力の積み重ねを見てきただけに感慨深い。

    

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オタクにはならないように

   声高に(安全保障)と言いながら、実際には安全に無防備で鈍感になってはいないか?

   政府は借金を山ほど抱えながらも、 中国や北朝鮮の脅威で、日本は防衛体制を機動的に対処すべく予算は特別扱いで強化するらしい。

   国民の生命・財産・主権が敵の武力や侵略によって脅かされないように安全保障に勤めると言う。

   歴史的には確かに侵略したりされたりもあった。

   国民の生命・財産、主権を脅かすのはどんな場合も敵の武力侵攻が最大か?

   地球的に見ても、鳥インフルエンザのパンでミック、温暖化による異常気象など環境の異変、絶滅種の増加の危険。 
    (未曾有の経済危機)を1年前に予告したのを無視したのは世界のリーダーと世論、

 関西の100名から犠牲者を出した電車事故は、事故の数年前から危険は指摘されていたとも言われ、今その裁判をしている。

  国の借金は安全保障の上から問題は無いか? IMF(世界銀行)から借金するようだと政府の権限は夕張同様著しく制限され外国からの介入は余儀なくさせられる。 毎日90人からの自殺者を出し、義務教育で学校へ通えない子供は12万人抱えてる。これは国民や子供の安全保障と関係ないか? 自殺や不登校がどうにも出来ない(安全保障)とは何なのか? 
      水や食料の安全保障も世界的には浮上してきている。

  全体的に見れば、脅威は侵略だけではない。外国の脅威からの安全を声高に言う専門家の見ているところは

 あまりにも専門的とは言え、他を切り離して1部に目を凝らし視野が狭くなってはいないか? 
             つい目のすわったオタクを思い浮かべてしまう。

   

 

 

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言葉と実際の方向が違ってる

  軒並み先進国は、老齢化し、赤字を重ねている。 果たして(先進)とは 何を意味しているのだろう?

  どの国も(経済成長)を唱えながら、さっぱり良くならない(経済)とは何のことか?

  目指せば多少なりともその方向へ進むものだ。

  しかし、全体的にそうはなっていない。  言葉と実際の方向が違っている。

           まして、個々の政策は説明と実際が一致するのを見つけるだけでも難しい。

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森のようちえん②

水から上がって魚が生きてはいけないようにヒトは自然から離れては まともに生きていけない。

 人間活動によって地球の自然を壊している様は、人間本来の姿でないのと合わせて人間と自然の乖離を思わせる。

 魚を水に返してあげるようにヒトの生誕した森に返してあげたらヒトはどう動きどう変化するか 、それが(森のようちえんの)実験の持つ意味ではないか。

   人間が水を得たように元気になるだろうことは容易に想像できるが、社会が人間本来を忘れているような状態の中にあっては、実験結果を感覚的認識にとどまることなく、科学的、論理的な法則性まで導き出さなければ実験の結果を人々には伝わりにくい。

 

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森のようちえん①

(森のようちえん)と言うと、   森の木陰でドンジャラホイ テンテン手拍子足拍子‥の歌を思い出す。

   小人たちが楽しく踊っている、グリムやアンデルセンの夢のよう童話を思い出す。

   一方、現実社会は人間活動によって地球や自然を崩し異常気象や年間4万にも及ぶ絶滅種を出しながらブレーキがかからない。

   景気が悪いといってはお金を印刷するのは、日本の民話に出て来るタヌキがヒトをばかすのを、ヒトがヒトをばかすのにやっている。

   童話の世界と現実が逆転したかのようだ。

   しかし、魚やカッパが水からあがってもヒトにはなれないように、ヒトがいくら背伸びしても地球の生き物であることに変わりない。

     (森のようちえん)構想は河童や魚を水に返してあげるように、ヒトを自然に返してしてあげる実験ではないだろうか。

   ( ヒトを自然に返しすとどうなるか?)の仮説で実験をする。ヒトは、元気ななって本来の力を発揮するだろう。

    現実の社会や人間活動が普通になっている中にあっては、この実験結果も科学的に、論理的に、法則的に明らかにすうr必要がある。     

    《森のようちえん」)の持つ意味は単なる幼児教育の一つの提案では留まらない。

    経済の行き詰まりは人間力、しいては教育の行き詰まりをも意味している。  

   ( 森のようちえん)の社会実験意に求めるところは、幼児や子供より急がれるのは大人かもしれない。

    特に、社会的なリーダーには求められる。

     

   

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惟う②

  

    フロイドの説では無意識の深層が意識や行動をも左右すると言う。

    無意識から地球まで地続きで、人間行動によって地球の自然が異常を来たしているとすれば

     論理的には人々の深層部分もおかしくなっているかもしれない。

    自分の異常さも計算しておかないといけないないことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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惟う

≪ 見えない世界から見える世界まで  小宇宙と大宇宙  心と体  内界と外界    無意識と意識≫

   これらの言葉が別物のように対峙して考えてきたところがあった。

    しかし、無意識と大宇宙の間も連続した地続きにつながっているのではないかと考えた。

    心と体と大宇宙まで一体感を持って 一つ一つを想像できるようになると気持ち良いだろうなと、何となく惟う。

  

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リーダーシップ

 連日株価は報道されても10億人からいる難民や飢餓の様子は知らされず、連日、(海老蔵さん)が語られても今日も明日も自ら命を絶つであろう人のことは語られない。 メディアや政治がそうだから、人々はまとまらない。

  学級担任の仕事は、落ち着きのあるまとまった学級にすることだった。

 担任に求められるのは、それを困難にする最も難しいい子供(例えば 勉強が出来ない、乱暴、体が弱い など)への想像力をどれだけ持てるかだった。 不思議なもので、最も難しいい子供をないがしろにすると、とたんに子供たちは落ち着きをなくしクラスは荒れてくる。

 何でもうまくこなせる子供達も教師から心は離れマイナス面を拡大する。

 世界も学級も同じではないかと思う。

 世界も日本も今日のように荒れているのだから、良いリーダーがいないことになるが、それより(リーダーシップ)を口にする人たちが

 それが何であるかが分かっていないのではないか、と思う。 誰れ中心の政策だか、分からないような政策を強烈に推し進めるのがリーダーシップではなく、最も困難なものや(者)に対する想像力であることを子供達は素直に教えてくれた。

 

 

  

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