想定内

ホリエもんにとって、次々の展開は想定内だったようだが、最終結果は想定外だったに違いない。
近頃、想定外のことがが多すぎる。温暖化や異常気象、バブル崩壊はもとより、中・韓の反日運動。自殺記録の更新。こどもの世界でも不登校や障害児の激増。若者の引き籠もりやニート、犯罪、いやいや、三菱の自動車事故やJR西の大惨事も今朝の新聞の組織的談合も みんな想定外だ。地震や台風なら素直に想定外と思える。しかし前記の部分は本当に想定外だったのだろうか。似たような事件や徴候はかなり前からあった。どれも一線の現場では心配され言われてきた物ばかりだ。少なくとも教育については、私が教職に就いた40年前から、「これでは子供が歪む」と現場では云われ続けてきた。20年前位前はから「子供は変わった」と現在形で云われ、今は「学校は壊された」になっている。(語弊があるから学校とはいうものの、実際は子供や教育関係者のことを指してるはずだ)実感そのものだ。不登校はここ10年で急増したのだが、40年前にも少数ではあったが既に出ていた。20年以上前には、その状態も明らかになってきて登校拒否から現在の不登校に言葉も変えた。そして文部省は「どこでも誰でも起きうること」といつもの言い方で警告を発した。現場では原因や対応も研究され若干だが成果を上げている。しかし全体としては一向に減らないばかりか発達障害や抑うつ的児童生徒を大幅に増加させこの問題を複雑にし深刻化させている。原因や対応が明らかになってきているのになぜ減らないか。答は簡単。システムとして増やし続けているからだ。三菱自動車は、イヤイヤでも責任を取り、システムを変えた。教育は車より複雑なせいか、責任も明らかにせず一層拍車がかかっている。こうなるとちょとしたら想定外に見えるのは素人の浅ましさで、ホリエもんのように 想定内のことかと思いたくもなる。しかしこのシステムを強化してる人たちは
やっぱり想定外のはずだ。なぜなら、現在も将来も大変なつけの返済がもとめられることは知っているはずだからだ。
一方、統計発表は統計処理の工夫?で「減少傾向」とこの夏、都や国も発表するだろう。そのうち不登校数や障害児の増加の数は発表そのものをやめる可能性もある。それは役人にとって都合が悪いはずだから。これらの態度も想定内だからだろう。世の中、周りの事実より上を向く今日の風潮は発表する方も聞く方も 
これに違和感はない。

 
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滅多にはないけれど

教員生活の前半は普通学級、後半は障害児学級だった。前者は集団指導が主になり後者は個別指導が主になることが多かった。授業をしていて(いい感じだな)と感じることが時にはある。それは何がどうだったからと言うより、身体全体で感じるものだ。 少々きざっぽい言い方だが、でも。
若い頃剣道をしていた。打ち込む前、剣先で間合いを取る。やってる方は、あれが面白く、打ち込みはある意味で結果だ。剣道の魅力は間合いの取り方にあるように感じていた。集団指導のおもしろさは子どもとの間合いにあるようで剣道の時のことをよく思い出した。そして、頭の中は最大公約数を求めているようだった。児童の数だけ、性格や能力は違う。一斉の集団指導だから、全員に通ずる言葉が必要だ。それを求め続けている感じだった。
後者の個人指導は、顕微鏡を覗いてる世界の感じだった。子どもの表情や動きから、その子の心を想像し続ける仕事だ。想像があまりにも的はずれだと、子どもは相手にしてくれない。指導どころではない。
思い出は色々あるが、(授業)のおもしろさの1つだった気がする。
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多様性

先日、職場の人から、障害児の家族や関係者が書いた「障害児も地域の学校へ」という統合教育を願った、かなり分厚い本をお借りし読んだ。書いた両親の誠実さが十分伝わってきたし、統合教育を望まれる人たちが共同体を大切に考えているのが解った気がした。読んで良かった。
私は、教師生活の後半は障害児学級の担任だった。、障害児教育の考え方の違いはずーと、組織の路線上の違いだと捉えてきた。この本を読んで、率直に思ったのは、考えは違うかも知れないがその人達と落ちついてゆっくり語り合えたらいいなと言うことだった。一般的に革新的・左翼的団体間でも統合教育については、激しい対立がある。その本を読んで対立はもったいない感じがした。
社会のあり方を文化と言う観点から見ることが出来る。とりわけ、教育は文化そのものだ。
文化の価値観は根っこのところで、一元論・多元論とはあるが、具体的なところでは、限りなく多様性が求められるのではないだろうか。人の数だけ、意味と価値はある。本来は人の数だけ教育があっていいのだと思う。ある生物学者は逆に、「植物や動物は、多様な環境を持っている。」人も、~一辺倒ではなく、多様性が求められているのではないかと提言していた。全く同感だ。障害児が普通学級から排除されてはいけないが、教育の場は、養護学校、障害児学級、通級等など、実際は、かずのうえでも種類の上でも、システムや方法もまだまだ足りないのが現実ではないだろうか。あの本を読んで、その人達と語り合えば、きっと具体的に準備したい場や方法が、次々出るように思う。これから国は特別支援教育としてある意味で統合教育の形が進む。見てほしい。文化としての多様な教育の場が広がるのか画一的ななるのかを。障害を持った子供が具体的にどんな教育を受けることになるのか。教育は、子どもの立場から、至って具体的でなければ意味はない。行政の障害児教育のリストラへの渡りに船にしてはいけない。政治的に追求するものと文化的に追求するものは内容も方法も異なる。況や競争や 力で処理する今日の風潮は、文化から遠い。なぜなら
1元的で、多様性を損なうから。




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人の放す光

今日は2年生の遠足に障害を持ったI君の補助で付いて行った。歩いていると、Aさんという丸顔で真っ赤なほっぺと、にこにこ瞳の女の子が、そばに寄ってきてI君に話しかけたり、私に電車のことや、お弁当のこと、自分が太っていること、おかあさんが中国人であることなどを楽しく話してきた。
一方、目的地に着いて、並ぶとき、なかなか色白で美形のB君は、神経質そうな目で私とその子を見るなり、あっち行って並べと後方を指さし、あからさまに、嫌がった。(この子も、お弁当の時は、シートに一緒に座らせてくれた)なかなかはっきりしてる子だ。
AさんとB君の1連の動きや表情から勝手に、Aさんからは、自然の光を,B君からは、青白い人工的な光を感じた。今のご時世は大人も子ども暗い話と顔が多い。しかし考えてみると、人はどんな場合も、生きている限り、そこで最大限光ろうとして光っているのではないだろうか。自分は見落としていないか?と自問した。
すると、光の色や光り方で捉えるのもいいなと思った。そして、自然の光りと人工的な光りは区別した方がいいようだ。光りは人により、場合による。、固定していない。ただ、周りを見ると、人工的な光りが増えている感じだ。
自然の光りはやさしく安心できる。人工的な光りは、人目を引くが安心しきれない。お互いに自然の光りが出るようなつき合い方をしたい。

  
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もう 最高!

今日、またも固い内容のブログを書いていたら、突然、珍しい人から電話があった。25年前私がまだ30歳代の時、小学校1~2年生の時の女の子の教え子からだった。7月に結婚するので式に出てほしいというのだった。びっくりするやら懐かしいやら。声は昔のまま、話もスムーズに弾む。私の頭の中の彼女は1メータ^30ぐらいの可愛い女の子。実際は1メーター64あるという。彼女のなかの私は運動好きな元気な先生。実際は身長1メーター62体重80キロ、頭は真っ白でひげを生やした現役を退いたお爺さん。7月にあったらお互いびっくりするだろう。
「赤ちゃんが生まれたら、のんびり育てるのがコツだよ」またしても先生風をふかしちゃった。
 ごめんごめん。つい地金が出ちゃった。でもいい。最高に嬉しいんだから。
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これが教育行政?

昨日、学力低下の対策で、夏休みを短くし、土曜日授業の対策を実施したり計画してる自治体のあることが報道された。文科省は自治体が色々工夫したらいいと腹の大きいコメント。尾木さんという現場的と言われる教育評論家は、学力検査が世界1だったフィンランドは日本より授業時間の短いことをとりあげ、否定的見解。運動会などの学校行事などに使うのは有効と部分肯定。
授業時数を多くする理由は、国の基準を確保するのが困難とのこと。
はっきり言って呆れた。もうかなり前になるが「教育ママ』の現象をメディアは揶揄的に取り上げていた。確かにその弊害は沢山目にしてきた。「オバタリアン」に近いイメージだった。今、公的に、行政的な権力を使って実施する。スゴイ!としか言いようがない。
教室で子ども達に聞いてみるがいい。特別な子どももいるとは思うが、まずほとんどが、「えー なんでえー」と悲鳴にも似た大声をあげるに違いない。(勿論この場合も聞き方1つで,フォーマルな声になる)
大人達に考えてほしい。我々が子どもだった頃、今よりはるかに、子どもの時間はいっぱいあった。
それでも、夏休みを1週間短縮するといったら、総ブーイングだったでしょう。あなたはどうですか。
今は3間(時間・自然の空間・仲間)が取り上げられているのです。夕方、愛の鐘を鳴らしても、そのころ
こどもはほとんど外にはいません。様子が全く変わってしまっているのです。私が子どもの頃だったらまだしも 勉強時間を確保すればそれなりに力は付いたかも知れません。今、子どもは殆ど拘束され、自分の時間を持てないのです。その上、勉強はお腹いっぱいの飽食状態で疲れています。(ゲームやテレビは代償行為です)
以前、保護者会では必ずと言っていいほど「遊んでばかりいて、勉強しないのですがどうすればいいですか
宿題でも出してください」と要望されたものです。いま1ばんは「学校へ行き渋るのですが」だ。
勉強時間を増やすのは、昔なら1つの方法だったでしょう。今は殆ど、下剤の役割です。
今の雰囲気なら私のこの主張はほとんど通らないと思います。教育は現実的・実証的です。実際どうかを少し細かく丁寧に見てほしい。不登校・病気・問題行動との関係で必ず表れます。
評論家の尾木さんに  学校行事がどうなっているかご存じですか。教育ですから全面否定はしませんが
学校が落ち着きを欠き、荒れ、不登校が出、、障害児学級の指導で1番難しいのは10月だと言うことを知っていますか。なぜか 運動会や学芸会と行事と関係あることを。子どもの実状把握をもう一歩つっこんで捉えてほしい。
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ちょっと気が引ける

自分のブログを見ていると、暗く否定的な内容が多い。読んでいる人に不快感を与えているのではないかと気になった。心配ご無用。私は趣味も多く、若いときはスポーツに旅行、今は囲碁、映画や芝居、中国株、
子ども,このブログ、時にはカラオケも行きます。男女の友達も多い。奥さんの3度の飯は味覚にぴったり。周りの景色も色鮮やかにきれいに見えます。ということで、心配ご無用。
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特別支援教育は本気ですか

特別支援教育教育(特殊教育)は来年度4月から全国で一斉に実施される。障害児を普通学級に在籍させそこで特別の支援体制をとるというもの。全体的な意見はここでは控える。今は実際の作業に入っている
手元に,当市の関係資料がある。それを見た上で、3点指摘し、全国の関係する人たちに発信したい。
①実態把握
 平成7年~平成15年の対象児童生徒数の変動について
 小学校の固定学級児童数(障害児学級に在籍)20→51
     通級児童数(普通学級に在籍、一部障害児学級に通う)10→53
 
 中学校の固定学級生徒数(障害児学級に在籍)21→19
     通級生徒数(普通学級に在籍、一部障害児学級に通う)3→3

  小学校は増加傾向、中学校は横ばいとしている。在籍数だけを見ればその通りだが、小学校で大幅に増  加したその子ども達は中学校で、どこへ行ったのか。この間の児童生徒数の減少と、不登校の増加が   全く考慮されていないので実勢と中学での把握が出来ていない。中学では不登校という形で教育の場か  ら除外されているはずだ。

 ②原因と背景
  原因と背景にはいっさいふれていない。実態把握が曖昧なのだから当然かも知れない。
原因と背景を捉えなければ普通は何事も解決しない
 ③対策
  専門委員会と校内委員会の構成員とシステム作りを図示している。
  不明な部分もあるが、全体として、専門家に委ねる感が強い。
  私が発信したい1番のポイントはここだ。過去の経験から期待したサポートするはずの委員会が
  実際には子どもの指導がやりにくくしたことだ。サポート体制を作り知恵を集めるのは大切だ。
  しかし現実は私が経験したような形と運営が一般的になるだろうと思う。他への説明は、いいのかも知れ  ないが、アウトサイダー的だ。障害児教育、とりわけ、今日的な高機能の発達障害(情緒のトラブルで  共通)ではその子の情報はその子が発信しており、その子に1番近い、その子が1番信頼している人
  本当の意味での介護者、キーパーソンが、チームのなかにしっかり位置付かなければ、機能しないばか  りか足かせになってしまうことを伝えたい。専門家から学ぶことは多い。しかし、どんな事例もマニュ  アルを越えた、個別で独自の情報が必要であり、その子どもと信頼関係の無い限り、どんなプランも
  役立たない。運営の責任者や専門家は特にその辺の節度と見識が求められる。とにかく対象児のキーパ  ーソンを構成メンバーや運営の面でも考えてほしい。補足するが、親はキーパーソンである場合もある  しそうでない場合もある。親や保護者は、対象児と特別な関係を持っている。支援体制の中で、機械的  であってはならない。
  以上3点述べた。対象の子どもや家族、は必死だ。関わる人たちも実際を考えて発想してほしい。


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何処まで行く?

JR西日本の脱線大惨事はメディアで連日報道されている。あれだけ大きな犠牲を払ったのに、少しもつっこんだ原因の究明がない。昨日、外国の専門家が唯一国の責任に言及していた。日本は政治家も学者も市民も誰もそこまで目がいかない。民間といえども担当の監督官庁があるのに。あの無責任体制やあの過密ダイヤ。仕事への哲学の無さなど、同様のことは広く一般的なことはみんな承知しているだろう。(勿論監督官庁やメディアも)またしても、例によって、「喉元過ぎれば」「人の噂も75日」の民族性?として片付けられるのだろうか。
これが日本という国としてみたらどうだろう。この程度のリスクは問題外のようだ。
しかし個人であろうと国であろうと,行け行けどんどんと果てしなく進むものではない.どこかかでブレーキををかけ、どこかで方向転換しなければもたない。歴史を見ると日本は特に不器用で一本調子が多く状況判断が悪い。先の戦争も、とことんやって、原爆投下によって方向変換した。国の主体的判断と言うより外国の力によって,余儀なくされた感じだが建前だけでも変えざるを得なかった。
教育で考えてみたい。皮肉な表現だが、もし私が文部科学省の大臣で、総理大臣から教育と子どもを壊してほしいと要請されたら、わたしは今やっている文部行政を今のまま実施するだろう。なぜなら、特に、ここ2~30年で悪くなっていることは、実証済みで結果は、はっきりと検証されてるのだから。とにかく現場の子ども達の実際を見ず机上の対策ばかりだ。作文だから、一見よく見える。しかし教育は現実であり結果を見れば解る。今「健康で文化的=幸福」というもの差しで子ども達を見たらどんなプラスのの統計的な指標が出てくるだろうか。私はほとんど思いつかない。敗戦後育った私達はめちゃくちゃ貧しかったけれど、明るい未来はあったし、自分たちの世界があった。今、国では、学力がどうの言ってるが、実際は、子どもの運動能力の低下、不健康、情緒的な障害児や不登校、犯罪などかつてないスピードで増加している。教育そのものから除外される子供が増え続けている。その様な子どもが『どこでも・誰にでも起こりうる」と公的機関も認め警告しているのにだ。ヒヤリ・ハットはやまほどある。勿論、教育の転換は再度武力の戦争のリスクを払ってとは簡単にはいかないだろう。
60年前とは国の内外の状況は変わっている。おそらく、経済戦争?のどうしょうもないリスクを目の前にし行き詰まりにっちもさっちも行かなくなったとたときはじめて、本気で考えるに違いない。その時もやっぱり、地球環境か、外国から余儀なくさせられてのことだろう。出来れば出来るだけ早く、大事な指標を見て我々の自己決定で方向変換できるといい。それも教育に待たなければならないのだろうが…しばらく時間がかかりそうだ。今は大人が事実と知っていても耐えられないからか、目をそらしている。 今度の事故で明らかにしなくてはならない1つは、上命下達  命令ー服従 指示ー指示待ち の関係そのものです。形式と実際の乖離。主体性や責任感はどうなるか、検討してほしい。学校教育では命令や指示型の指導は、それ以外はやらない子どもを生み出し、それが度を超すと指示にも従わなくなり、さらに進むと従えなくなる。これは法則的でした。あの若い運転手さんや、会社のの人たちの様子を伺うと、かなり弊害が出るほど上命下達が進んでいたのだろうと想像されます。教訓は多いのではないでしょうか。
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運転手さんは他人事?

JR西日本の脱線事故で、原因として、スピードの出し過ぎた運転手さん・安全の哲学を欠いた会社の条件整備や経営・現場の気の緩み、などが報道されている。本当にそれだけでいいのだろうかと思う。あの運転手さんの立場は、かなり多くの人たちが、他人事とは思えなかったのではないでしょうか。自分の職場でも、そして自分の中にもと頭をかすめたのではないでしょうか。羽田飛行場の一斉物忘れ、事故現場を見てそこを離脱した2人の運転手、事故を知りながら、コンパをしていた同社の社員のことは上司が知っていてことだった。私が付き合った不登校の少年も周りの誰もが当事者とは思っていなかった。(勝手な決めつけかも知れませんが) 共通して言えることは、責任の形ばかり強めた結果、実際の当事者感覚、当事者責任が希薄になり、実質、無責任体制になっていると言うことではないでしょうか。それを報道する新聞社や放送局、そこに登場してくる人たちも同じような立場にいて、無責任体制を想像するのは難くないのではないでしょうか。他人事のように責任を追及する人の顔をみていると、やっぱり 【無責任】 と思ってしまうのです。右も左も経営者もそこで働く人も、命令する人もそれに従う人も、【文化の担い手・主人公】としての感覚を失っているのではないでしょうか.(自分も他人もいいかげん)が常態化しているのではないでしょうか。総鍋ガエル状態かも知れません。 話はそれますが、今日は(こどもの日)。子ども達には大変だけど頑張ってほしいと願っている。皮肉だが大人が反省する(おとなの日)を作った方が子どもは喜ぶんじゃないだろうか。………とりあえず、これから碁を打ってこよう。
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