世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
常套手段
《3少年逮捕》のことでも 《ウクライナ》のことでも 《IS》のことでも 《安保法制》のことでも 《安部ノミクス》のことでも
何のことでもいいが、どうして全容を丸ごと報道してくれないのだろう?
毎度、「専門家」が登場して解説するのだが、いずれも(専門的解説)の名で(部分的)あるいは(断片的)解説に終始している。
時間やスペースの制約があるなら そのことを踏まえ部分的なことを断らないと、読者や視聴者は「専門家」の権威の前に
全体を理解したかのような錯覚する。 断って物を言ってるのを見たことがない。
またもやうやむやにするのか?
川崎の事件を起こした子供たちの間違いは 言うに及ばない。
なぜ彼らがそこまで追い込まれて行ったかを知りたいのだが、またしてもうやむやにされ、次の事件を待つことになるのか?
人を殺すべくして生まれてきた赤ちゃんは 一人としていない。
必然性のない行動はありえないし、あると断定するのは ただ 人を信頼せず人の心を考えるのを放棄したに過ぎない。
傷つけられないたことのない人間は 傷つけることを知らない。
傷つけられた人間が 場と形を変えて他人を傷つけ 自分の痛みから逃れようとする動きの必然性は否定しきれない。
脳は大きくなったが
愛の印だった70億のヒトは 競い争い殺し合うのを止められない。
脳は 欲と一緒に大きくなったのか? 「発達した。」とは一概には言えない。
どこへ行ったか?「安全・平和」
中学生が同じような年頃の数人に首を切られて殺され、女子学生や女子高校生が殺人願望で不特定な人を殺害する。
イスラム国の斬首どころか、 こんな突発的とは思えない事件が続いても世界は反応しない。
安全・平和のために 軍や憲法を論ずる人たちも 反応しない。
地上には10億を超える食料難民がひしめき この小さな島では 来る日も来る日も 80人からの人が 自ら命を落とし、同じような数の老人が一人
孤独に死ぬ。
「安全・平和」は どこへ行った? 世界も島民も 見ぬ振りか 3面記事にするだけで まともに反応しない。
だから 大丈夫
小自然である人間は 大自然と一体を感じたとき (美)を感じるのかなあ。
不自然が一杯に見えても 自然の(美)と(理)に覆われている だから大丈夫。
ウカウカしていられない
人が もっと自然に耳を傾けていたら、今のように目茶苦茶な世界には ならなかっただろうと思う。
それを考えると、教育の問題は大きい。
結局、教育の方向が自然から遠のいていたことであり、今になっては いかに人間が自然を取り戻すかが問われる。
それは 全ての大人や老人の課題であり,今いる子供たちやこれから誕生するだろう子どもたちへの飾り言葉ではではない愛を伴った責任だろう。
その意味で、教育者はもとより学者・宗教者・芸術家、ジャーナリスト‥等 文化に関わる全ての人(関わらない人はいない)の実態を伴った【愛】そのものの在り様が問われている。。 年寄りだからと言って、ウカウカ してはいられない。
人の尊厳
畑で野菜をつくるのは 面白い。
野菜の育ちを見て手入れを考える。手入れが良いと立派でおいしい野菜になる。
基本的には子育てや教育も同じで、学びの伴わない教育はなく 営みとしては一体なんだろう。
シニア向けの「大学」など(老人の学び)が言われるが、【老人の社会的役割】として、学びと教育の一体化した活動が求められている と思う。
単なる教養的な(学び)や先輩面した(教える)ことでは無い。人の尊厳は 死ぬまでで 子供も老いも ない。
言葉使い
子供の頃 兄弟げんかなんかで「バカ!」と言っただけでも、無学だった親からは「言葉使いが悪い」と叱られたもんだ。
今は「悪」だの「壊滅する」の決めつけた言葉やそれに伴った行動が 世界に氾濫しているような感がしてならない。
言葉使いは 礼儀や道徳ばかりでなく、人が生きて行く知恵を意味してるだろうから 気がかりなのだが、リーダーや学者や文化人等と言われる人たちも それを諌めるのを聞いたことが無い。
言葉は 仏教なら「正語」を 聖書は「愛」を 古代ギリシャ哲学は「論理」を説くし、そもそも(言葉)の語源そのものが理性を意味している。
家庭や小学校では 子どもだけでなく親や教師の言葉使いも 無関心ではなかったと思うが…
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