私の悪い癖

 自分のブログを読み直し思うのは誤字脱字が多いこと。内容的には、偉っらそうに独断で極端な表現が多い。文章もすっきりしていない.まだまだあるかもしれないが、幾分自覚もしている。

 いい訳じみてるが、確かに今日の教育や地球環境には強い危機感を持っているし、自分に残された時間もそう長いとは思っていない。また、仕事柄なのか、物事の背景を探る思考の癖がある。癖だらけの人間がまた書く。

 私が子供のころ親や大人から違和感無くよくことわざや言い伝えを聞かされた。このごろはことわざなどあまり言わないし,言ったとしても周囲の雰囲気とぴったりこない感じがする。

 当時、「1を聞いて10を知る」「百聞は一見にしかず」もよく聞かされたし、おふくろが良く口にしたのは他人の悪口を言ってはいけないの意味で、「他人(ひと)のことを良く取るも悪く取るも(解釈の意)本人の人格しだい」とよく言っていた。

 母親の言葉はは特に心に残り、自分の子どもにも何度も言ってきた。私のお袋に対する自慢の一つでもあった。始めの二つは、今聞くと、時代や風潮の変化を感じる。「1を聞いて~」は想像力の大切さを、「百聞~」事実とその確かめの大切さを言ってる。

 教育の国会論議や日々のメディアの報道を見ていると、この言わんとするところは風化し、時代は変わったと、思う。想像力や実際を確かめるのは立場や考え方を超えて誰にも求められる感性であり、態度だろう。これが全体的に損なわれてきている。

 この風潮を私は(鍋ガエル)や(のぼせ上ったユデだこ)と形象化する。始めは揶揄的だったが最近は実感に近い。こんなことを偉そうに言うところが私の癖なのかもしれない。

 1年前、日本の景気の下方修正を公的機関でするだろうと
私は予測したが、実際下方修正し発表されたのは1年後の昨日だった。何を基準に早いか遅いかを論じなければならないだろうとは思うが。

 特に教育関係で子どもやそれを取り巻く環境の変化は、私が予測し、あえて教育実践の中で話してきた予想は今の現状を見るとあれでも甘かったという反省がある。

  だから「ボケ」は他人事ではない。30年以上も前、著名な評論家,故大宅壮一の「1億総白痴化」の予想は当時は推論の推論と受け止められていた。メディアが用いた「平和ボケ」なども今考えると全く理由の無いことではないようだ。

経済は、日本人が見ているのと、外国が日本を見ているのではかなり違っているのではないか?。教育は周囲が見ている子どもと、子どもが見ている周囲とはかなり違う。

「経済も教育も勝手な「思い」では動かない、事実で動く。」
 
 このことを悪い癖のある自分に繰り返し繰り返し言い聞かせたい。

  

 

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教員の評価制度

内閣府は全国調査で教員の評価制度をしているのは13パーセントと発表した。学校教育で教員の評価が大切なことに全く異論は無い。言葉で言えばその通りである。ただ実際如何行われ、どういう結果をもたらすかは全く別だ。何事もそうだろうが、言葉で物事の良し悪しは決まらない。具体的なやり方で良し悪しの結果が決まる。麻薬が薬にもなり、薬が猛毒になり命も危ぶむのと似ている。地域の有力者や保護者、時に子どもに評価してもらい学校や指導の改善に役立てようというもの。私の考えを結論的に言うと、やり方次第ということになるが、今、東京日野市でやっているようなのは、プラス・マイナスでマイナスが多いだろうと思う。教員は直接子どもや保護者に直接関わるので、そこを評価の対象としているのは分らないではない。しかしそれは指導者として主体的なな判断が保証されている場合の話である。1時間1時間の指導計画が、学級の子どもを知らない管理職に様式から内容までチェックされ、一方的に指導され、書き直しを求められるような、なかで教員の評価をしても、(乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが)ロボットの評価をしているようなもので、ロボットを動かしてる人の責任や評価はでてこないから改善には繋がらない。これは論理の問題でなく、今行われている実際を見てのこと。分りやすい例を一つ挙げる。今学校では殆どの教師が背広にネクタイ、女性ならスーツ姿である。これは管理職からだけでなく教育委員会の指導が後ろにある。この指導はかなり昔からあったが、以前は各教員の判断が通じた。今はかなり難しい。保護者や最近は子どもも、その正装?を堂々と求めてくることがある。儀式や保護者会は別にして、小学校の日ごろの学習時の服装でふさわしいのはあの正装?だろうか?私は長い教師生活を振り返っても、あの正装は授業の仕事着だとはどうしても考えられない。これが大学や高校だと少し違うかもしれないが、少なくても、小学校ではふさわしくない。細かい理由は色々有るが、分りやすい話、幼稚園や保育園の保育師(今は男女がいる)正装していたら如何だろう?と考えると分りやすい。子どもによっては、泣き、帰ってしまう子もいるだろう。保育園の先生が制服や正装でなく、その先生なりに可愛くく、楽しくおしゃれをしている方がどんなにいいか。子どものおしゃれ感覚を育てたり、人はそれぞれ個性のあることを無言伝えることにもなる。保育氏や小学校の先生が職業上配慮しなければいけないのは、大人の目を意識して正装することではなく、子どもの気持ちを考え、学年や、クラスの子どもの好み、自分の個性やセンスを考えて個々の教師が服装にも配慮することではないか。現在この街も教師の評価を取り入れている。そのほか地域の人の学校評議会でも評価している。その評価の結果正装はより強く求められている。市内の18の小学校はどこも同じ。いつか詳しく書きたいが、授業の見方も、親や管理職の評価を得るための指導法はそれほど難しくは無い。難しいのはクラスの子どもにあっているかどうかにある。服装ではないが親や管理職にほめられる指導は工夫の必要は無い。それは親や管理職が納得できる授業を組めばいい。親や管理職が理解できる範囲はマニュアル程度であり、そのクラス独自の実態は子どもと教師しか知らない。正直に言うと現役時代、私はとことん子どもやクラスを優先したわけではない。ぎりぎりでは有るが、周りや自分の状況を見て手加減した。自分が体調などよく自信のあるときは、褒めてくれる人が半分もいればいいと思った。自信のないときは8割近くの支持者ができるよう加減した。教育はある意味で人と人のすりあわせ。みんなが「いいよ、いいよ」というような実践は私は眉に唾する。文科省や教育委員会、多くの管理職や保護者もその辺が難しいようだ。その辺は子どもが一番分るようだった。
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やっぱり、教育再生会議

 以前、集められた教育再生会議のメンバーをみて、教育を専門的・指導的な役割を果たす資格はあるだろうか?と疑問を呈した。

 今回いじめ対策で、緊急提言を出した。
①いじめに加担したり見逃した教師への処分
②いじめた側の子どもの出席停止を積極的に行う。
③問題を起こした学校への支援チームの派遣 討議の中では、         体罰の容認論も出たそうだ。

 一方政府はいじめの実態の再調査とスクールカウンセラー配置の予算増額を緊急にするらしい。上記の政府や再生会議の提案は予想していた通りで「やっぱり」が実感だった。
 結論的にはいじめをさらにこじらせるだろうと思う。緊急措置だけしか報道されていないので、原因や背景を如何捉えているかは推論するしかないが、これではほとんど原因の分析ができていないと思われる。
 細かくは書かないが1つだけ書くと、今の構造的ないじめが学校で頻繁に見られるようになって20年近くなる。それは、子どもを取り巻く人間関係や子どもの日々の暮らしが根っこから変わってきていることが背景にあった。いじめの様態もいじめられる側のダメージのレベルも周囲の反応も大きく変わってきていた。(今日の危惧は現場ではすでに私が教員になった1965年ごろかなり多くの教師が研究会などで話されていた。)それから何十おたった現在、現実を前にして対策を考える当局や再生の委員も、自分が子ども時代の(少なくとも4~50年前のいじめ)を念頭において対策を考えている。質的に全く変わってきていることが分っていない。
 まずやらなければならないことは、今の子どもの心と気持ちに大人がしっかり目を向け見ること。そうすれば如何に大人が(特に教育行政は)子どもから目が離れているかが分る。そして既に目の離れが構造的になっていることに気が付くはず。
 緊急の対策は平凡だがすぐに出せる。本気なら、効果もかなり早く表れるだろう。(子どもはそのぐらい敏感な存在)
そっぽを向いたまま、お金をいくら掛けても「死ぬな!生きろ!」と声を掛けても子どもの心はつかめない。お金や、掛け声で解決できない事がわかれば、お金や一銭も要らないし大声もやっているぞと言わんばかりの派手な対策も必要ない。心は心でしか捉えられない。

 

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教育学者?

 昨夜、どこかのチャンネルで、「教育の自由競争」をテーマに2人ずつ賛成と反対に分れ激論?番組があった。後方の一般市民も意見をいいテーマに参加するというもの。

 今まで、このブログで、今日の状況下で学者や専門家は何をしてるのかと指弾してきた。昨日の議論は教育系の大学教授によるものだった。

 話す態度や賛成・反対の立場はさておき、双方中身が無い。国会論議と同様、言辞が優先され相手を言い負かそうという意図がありありと感じられた。私が聞きたい中身は教育される子ども達の発達や成長との関係がどこかに吹っ飛んでいる。むしろ後ろに座っていたお母さんの言葉の中に期待する中身が含まれていた。私は教育学者は「教育の自由競争」のテーマを、まずは子どもの発達の観点から学問的(教育学や心理学)に考えを述べてほしかった。1時間番組だが最後まで聞けなく後味の悪いものだった。話すのを聞いていると双方、頭に子どもの動きや顔が映っていないようだった。中にはペテン師顔負けの身振り・話しっぷりの「教授」もいらした。最低落ち着いて話してほしい。
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年寄りっ子の三文安(教員養成)

 「年寄りっ子の三文安」とはお年寄りに可愛がられ、仕込まれると教え方が旧式でその子は、(実際には)新しい時代に対応しにくく大変だと言う意味だろう。
 
 学校現場に来る新任教師は丸1年は(喪に服するような)新任研修が課せられる。着任した学校では担当指導官が当てられ決められた計画に沿って一方的に指導される。教育委員会でも年間数10時間の(詰め込みといえるような)指導主事や地域の管理職による一方的な研修を受ける。新任の教師は表向きとは別に影で殆ど例外なくといっていいほどぼやく。

 実際この1年で自殺や心を病んで休職したり、教職に見切りをつけ辞める若い先生は予想を超えて多い。

 校内の指導教官の多くは、学校長からの個人的な依頼で任されれ、年配の教師が多い。私の経験したかなり多くは、指導が形式的で旧式な教師が多かった。実際その指導教官の学級ががたがたしているケースも珍しくない。指導教官を終えすぐ退職したり転勤したりする例も少なくない。

 教育委員会の指導主事や地域の管理職による指導は、目の前に子どもがいないからなおさら【理論的?】になる。もともと指導主事や管理職は子どもへの指導の実践では(?)の教師が多いのが一般的だ。指導主事や管理職の登用試験は教師としての見識や実績より、上部の文科省や都府県の教育委員会の方針をどれだけ身につけ、それに以下に忠実に従うかを優先させて決める。

  外部で見ているのとは違って、管理職登用試験を受けている人は学級の子どもや父母、同僚からの信頼は薄い先生がが一般的である。唯、逆にその学校の管理職や地域の教育委員会の信頼は高い。(当然といえば当然で所詮、仲間を作ったりその仲間に入ろうとする教師同士の関係なのだから。実態は「親分子分の縁結び」との言葉がぴったり。)

  そういう中での教員養成の指導は上部からの指示や指導には敏感だが子どもへの指導はハイカラ?な言葉とは逆に古くて画一的になる。(いじめ自殺問題や不登校についてもメディアに登場する上部の大臣始め教育委員会や学校長の言葉をよく見ると、原因や対応の糸口もみつけていないことが分るはずだ。学校現場での指導?も全く同じで、糸口すら見出している人の話を聞いたことが無い。障害児学級の授業を子どもの邪魔をしないで見られた管理職や指導主事にはついぞ最後まで出会わなかった。言い古された「年寄りっこの3文安」は教育の世界では文科省から学校現場まで普通であり貫徹している。落ち目の企業は別だが、新しい企業では考えられないだろう。
昨今の、スポーツ界の指導や管理の旧態からの合理的な変化

も教員養成では参考になるはず。決して画一的な技術を画一的には求めない。そんなことをやっていては間に合わないことが分ってきている。選手の活躍に感謝し涙を流す監督の姿は目にするが、教員を指導する人にそのすがたをみたことは無い。

教育界では格上が格下から学ぼうとする姿勢は殆ど見当たらない.「格」が最優先され「学び」はない。学びを学べない教師がどうして子どもに「学び」を学ばせることができるだろうか?

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文科省は豊田方式を学んだ方がいい

 今や豊田自動車は「世界の豊田」と言われるほど、世界に名を成す企業になった。その成長はいい意味でも悪い意味でも「豊田方式」といわれるほどで、国の内外に大きく影響している。     

 今朝のサンデープロジェクトで社長さんは成長の秘訣(豊田方式)を次のように話した
①社員を働くロボットと考えてはいけない。心(プライド)を持ち、工夫して生きている働く人として大事に考えること。
②どれだけ儲けようとも常にに危機意識をもつ。
③「はじめに数値目標あり」ではなく各部所の努力の結果として数値を見る。 
 
 かねがね企業の現代的な経営感覚が教育行政や現場の学校経営とは異なりしばしば羨ましく思ったことがある。教育関係は今も一時代前の上意下達の一方的なピラミット型の組織である。問題が山積しているが従来の形の強化で乗り切ろうとしており、この上意下達やや経営の見直しの兆しは全く無い。
 
 即ち、子どもに直接指導する教師は上意下達の末端で、心を持った人の扱いは上からはされていないし、いじめや自殺不登校を見ても分るように、危機意識は全く無い。テストの点数や数値目標が優先されているので、いじめのや不登校・未履修問題などに見られる偽装報告や偽装統計がまかり通っている。全く豊田方式とは正反対。

 教育は企業と違い政治や行政の管理監督の対象というより、采配の対象である。だから、経営そのものの是非が問い難いのだろう。よく(官から民へ)と政府は言うが、教育の場合、文部官僚のリーダーは政府であり、議員と言う民間人で、文部大臣は身内の文部行政の責任者にもなっている。自ら指示命令していながら政権に関わる否定的な評価を下せるはずは無い。(常識的に実際もそのようだ) 

 政府のリーダーは民間人といえども、特定の政党によってその座は占められ、権力争いでその継続の可否が決まる。企業は利益というはっきりした判定基準があり、儲けなければその方針の継続は許されない。多少の人脈があっても儲けが優先される。かたや、教育の場合何よりも政府の政権の継続が優先される。子どもの教育が優先されない仕組みになっている。

  出口は無いのか?確かに殆ど無いが、どんな悪い仕組みも限界はあるはず。とことん落ち込み、このままだと政府の責任が問われ政権維持が困難と言うときに始めて改善される。(これは政権与党が変わる場合もあるし政権党は変わらず政策を変更する場合もある。(反省はしない。自らの非はおっぴらにできないだろう。なぜなら政敵に弱点を見せ、責めの口実を与えるようなもので、政権の維持に直接関わってくるから。)
  こんなことで財界から大いに学びたい政府も競争原理は取り入れても新しい経営感覚までは、受け入れられないでいるのではないか。「豊田方式」の番組みを教育のリーダー達は如何聞いていただろう?

 教育もゆくゆくはこの経営感覚が必要になる時がきっと来る。

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 「とりあえず 」の国  がいい 

 同郷の友人の口癖は「とりあえず~」と話始めに言う。酒を酌みあわすときも,「とりあえず~」と「乾杯!」代わりに言う。
 ところで、小泉首相が5年間の任期を終えて国民に挨拶したかどうか知らないが、「○○はうまく行ったが○○はうまくいかなかった、ご協力ありがとうございました。」と反省やや挨拶の弁は聞かなかった。思いだしても、過去、就任していたどの大臣からも聴いたことがないような気がする。
 人は勉強であろうが仕事であろうと遊びであろうと何かをやれば必ず失敗はつきものだ。その失敗を教訓に次の発展が期待される。全く失敗がないのは、何もしなかった事を意味する「無謬主義」は自己中心の個人や団体の独りよがりの意識の中にしか存在しない。政府の責任者の首相も行政を担当する各大臣も、それなりの立場でがんばったのだと思う。だとすれば国民に率直に反省の弁も含めてお礼と感謝を述べるのが礼儀だろうし、良いに決まってる。何故それが述べられないか、私は本当の意味で「施策を実施し試みる」の事実対し謙虚さがないからだろうと思う。
  理科の授業の仕方に「仮説実験授業」と言うのがある。推論し仮説を立て、実験し、その結果は仮説どおりになることもあるしそうならない場合もある。そうならなかったらなかった時は「何故か?」を考え新しい実験を試みる。これは科学的な思考と力を養うためにする学習である。
 政治・経済・教育などの行政の施策的なものから個人の日々の仕事や、子育てや料理にたる全ての分野の活動は、この仮説実験の発想から学ぶものがあるのではないかと思う。もし行政にこの感覚があったら、今日のような異常ともいえる社会にまではならなかっただろう。教育行政はいじめ一つ解決の糸口すら見出せないでいる。いじめがどんなもので如何行われるか、解決の方向を知っている人(該当する子ども達が目の前に沢山いるのだから)たちがいてもみつけられない。(失敗した原因や新しい施策を見つけるより面子の筋を通し責任回避を優先するから
当然ではある。)
  私の友達ではないがとりあえず、~でやってみようとやってみて、違っていたら「新しくやり直してみよう」と考え直したらたらいい。決め方も一応、制度的な方法で決めればいい。だめだったらその事実を見てまた制度的に決めなおし、やり直せばいい。けっしていい加減でいいといってるのではない。立場や権威・権力の面子にこだわり、いじめ一つとっても頑固で柔軟性の無い現行政は、リスクがぎりぎり限界に近いところまできいても、一向にその反省の兆しすら無く原因はあくもままならない。ここでは行政や大臣など偉い人を取り上げたが同じことは野党始め労働団体や宗教団体を始め下々の職場や地域や家庭でも同じようだ。(私自身も公私にわたり自分の自慢はしても、自分の不足や失敗を述べることが極端に少ない)友人や巷での会話でもマイナス面を口にしない傾向がある。これはむしろ率直に言うことにより個人でも団体でも、前向きにのびのび行動できるのではないだろうか。友達の「とりあえず」の言葉は軽いが奥深いと思う。

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[右や左の旦那さま」

  昨日は、参議院の特別委員会における教育基本法の論議を5~6時間見続けた。
 与野党の議員が政府に質問し総理や文科大臣等政府側が答弁する。総じての感想は、政府・与野党とも(要するの国会議員は)この論議すること自体に無理があるように思った。
  立法府の議員といえども、教育の基本理念に関わる重要な話し合いをするには、事前に予備知識として持っていなければならないことがある。それは現状把握。勿論立場で見解は異なるだろうが現状把握は最低の前提条件だろうと思う。
 教育が現在行われており、それを変えよう(変えない)とするなら、今どうなっていてそれをどうするか(しないのか)、具体性を伴った話でなければ意味がない。殆どそれがない。
 (国を愛する心と態度の違い)等のように言辞的な論争で具体的な教育や指導の観点からは、
単なる空中戦。(具体性の無い理念は意味が無い。赤ジュータンでのサロン的なやり取りとでも言いたくなる)勿論、教育される子どもたち不在の論議。切り口は法律の言葉でもいいし、現実問題のいじめや未履修・やらせ等、それはどこからでもいい。しかし教育論議だから言葉の奥に(各自描く子どもは違っていても)実際の子どもを描いていなければならないだろう。

 当然話の流れは具体的な方向をたどる。抽象→具体 それが一向にそうならないでどこまでも抽象→抽象。抽象的な言葉で云々しても現実の裏ずけがないから、どうにでも解釈できるし、どうにでもなる。これでは話し合いそのものが意味がない。
  次に感じたのは責任感である。今日の状況を憂うるのはどなたも共通しているようだが、今日の状況にした(子どもを今日の状況に追いやった)自らの責任を問う人が誰もいない。大人であれば誰しも逃れられないのではないか。特段これを口にしなくともせめて、問題を他人だけに押し付けたり、法律のせいにするのは無責任極まりない。
 法は人が用いるものの一つでしかない。法律を変えても用いる人の意思が変わらなければ物事は変わらない。これは法律以前の当たり前の話。
 ついでだが改正案で「愛国心」や「家庭の責任」など付け加えるようだが、法律以前の当然のことを法に書き込まなくてはならないのっぴきならない状態になったのはなぜか?書き込んでどうするのか?それが議論されるべきだろう。安易に法にするものではない。人や社会は法律以前の法(常識・自然法)が前提で成り立つのではないか。
 もう一つ責任のことで問うなら、今までそして現在、教育に最終責任を持っているのは誰かが政府や与野党の議員の誰からも指摘されないし、名乗り出る者もいない。具体的な問題が出ると責任の所在をあちこちに振り、5~6時間の議論の中ではとうとう曖昧なまま。そこは政府や立法の責任者が集まっているのに、まさに他人事だ。
 (最終責任者は法律に書かれていようがなかろうが、社会的には形式上で決まるが、当人にその意思が有るか無いかで最終的には決まる。形式的には行政の責任者。はっきりしないときは上がとる。これは社会的常識ではないか)
 こんな人たちがいじめを見て放っておく周りの子どもも問題云々と、言っている。自分抜きの話は全く教育論議する以前の問題。
 こんな事を感じながら、でも5~6時間見続けた。自分もこのマヒした世界に生きているので他人事ではないのだろう。
 この国に気の利いた王様がいたら、下々のこの様を如何言うだろう?私は思った。この国の人々が一人ひとり王様になった気分でものを見、言葉にしたらどうだろう?王様になったつもりが難しかったら、裸の王様に出てくる【王様は裸だ!】と叫ぶ子どもになった気分で物を見て言ったら、この世の中も、もう少しリアリティが出てくるのに。
 右や左の旦那さまは難しい言葉を次々使われるが、姿は別にして知的には小学1~2年生かな?3~4年生だともう少し違う

右や左の旦那さま!どうかⅠ票の見返りくださいな!」

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畑違い→見えない

 小学校の教員になった時、担任していた3年生が教室で私の腰の周りでワサワサしてるのを見て(変だけど)毛虫のようだと思った。それは一週間もしないで消えたが始めはそう感じた。それまで高校で教えていたので背の低い私は生徒を見るとき視線が上向きだった。それが急に下向きになりその上わけのわからない動きをする。気持ち悪いとは思わなかったが奇異な感じだった。
 小学校の教師になってから
も、小学校は1年生から6年生までありからだの大きさから何から何まで大きな違いがあり、急に1年生のところへ行ったりすると教室が、やけに広く感じ、6年生の教室に行くと教室全体がまんぱんな感じでその上、自分の立っている方まで圧迫感が押し寄せてくる。  
 担任が変わったときなど目が慣れるのに最低10日はかかった。皆同じだろう。これが障害児学級へ行ったときはそれ以上で10日や1ヶ月では目はなれない。頭はもっとかかるし、対応はさらにかかる。
 教師の仕事は職人のようだと思う。大学時代の先生(教授など)を思い出してあの先生達は小学校の先生が勤まるかな?と考えてみると尊敬する先生も含めイメージができない。多分無理だろうと思う。(もちろんやれば顔も変わりやれるでしょうけど)何故イメージが描けないか。私が今も尊敬するカウンセリングを教わった臨床心理の先生も小中学校の教師としては描けない。せいぜい高校の先生ぐらいかもしれない。教育学や地理学の先生も気に入ってたがやっぱり小中学校では無理だろう。このことは中学の美術担当だった妻も言っていた。(東京学芸大の美術の教授が公立の中学へ指導に来たが数ヶ月もしないうちにノイローゼ状態になってやめたと言う。)児童心理学や臨床心理学をやっているからといって,児童の心理が分り対応できるものではない。学問をしていても教育の場合は実践して学ぶものであり全く別だ、指導の対象の子どもが目の前にいてそこで始めてその子から何が必要かを知らされるものなのです。【どんな指導計画があっても、実践ではその場で子どもから(気障だが)どう教えるかを学ぶものなのです。】だから指導計画は以前の指導時の様子を見て思い出して立てる。教育や指導はこの繰り返しです。
 教育再生会議のメンバーの経歴を見て何を相談するというのだろう?人は一応一人前になったら、「自分の畑」や「自分の持ち場」がある。あの中に教師としての経験者は2人かな?教壇を離れて1年以上離れているからよっぽど気をつけなければ【元教師】の肩書きでものを言うことになる。(今は子どもが見えないはず)ましてどこそこの会長・理事長・学長・教授・コメンテーター・劇団代表・企業相談役が集まってもどうして子どもが読み解けるか。思い出す元さえないではないか。何か勘違いしているようだ。教育は1時間の指導計画であれ,100んねんの計の国の教育計画であれ教育される子どもからの情報を分析しないで計画は立てられない。そこを無視して計画を立て実行してきた結果が今日ではないか。いい加減繰り返すのはやめてほしい。とにかく子どもを読み解くのはそう簡単でないことを知ってほしい。昨日書いたが、今の私は子どもが見えないし読み解けない。そのぐらい厳しい。

自閉症でも不登校の子どもでもいいから

1時間彼等に付き合ってもらえるかどうかを再生会議の採用の登用試験にしてほしい、と言いたいぐらい。安倍首相も試験ぐらいは受けてほしい。それからものを言ったほうが、真実味が出てくる。

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子どもが見えない

  今日、3月まで勤務していた学校の音楽会を見てきたが、(私なりであっても)子どもの姿(心や精神状態)が見えなくなっていることに気が付いた。
 全体的に落ち着いたいい音楽会だった。顔の良く知った子どもや先生方も沢山いたが、特に前半は子どもを見ているというより自分の心にどう映るかをを追っかけていた感じだった。
 現役のとき良くも悪くも、自分なりにこどもを見ると内面が感じられた。今日は自分の網膜に子どもは映り,声もしっかり聞こえるのだが、内面が浮かばない。半年という時間の経過を感じた。
 私がまだ30歳頃、父親が亡くなり、忌引きで10日間ぐらい学校を休み学校に復帰したときも今日と同じような経験をした。復帰し普通に授業もしたし校務もこなすが子どもや先生方の表情や動きを見ても内面のニューアンスのようなところが感じられない。何かガラス越しにみているようだった。
 どこかメクラ運転の感じ。社会復帰というか元に戻るのに1ヶ月近くかかった記憶がある
。そのとき、これはこの仕事の特徴だろうと思う同時に、メクラ運転もありうる仕事だと思った。多分、メクラ運転は周りの先生方や保護者は気が付かなかったのではないかと思った。子どもは言葉にこそしないが察知し反応してたのではないかと(今は思う。)スポーツ選手が何日か練習を欠かすと、即あの勘所を忘れ、取り戻すのにそれなりの時間がかかるのと同じようだ。
 まして今日は、半年振りに見るのだから、子どもが見えなくても当たり前だろう。(へんな言い方だが)音楽会を見ている時の脳裏は、周囲の人と同じような感じだった。多くの人の目が今の自分のように表面しか見えてないような気がした。
 こうして大人は子どもの心からから目が離れ見えていないのだから、今日の子ども達の問題も一向に解決の兆しすら見られないのもつい(仕方ないのかな)と思ってしまった。
 帰り道、子どもの見えない状態が、コンピーターにたとえると、バイト数が不足して、子どもが発する情報を処理できない状態と同じなんだと考えた。
 個別の個体である子どもの情報処理はマニュアルでは不可能だし、対応するにはそれなりの情報処理能力が必要になる。
 常識的には教育基本不を論議する与野党の議員さんも、文科省の大臣も役人も教育再生の委員さんも、子どもからの情報処理すること事体、難しい立場にいるといえる。資格のない人はいないが、(自分が趣味を離れ)私が他人におすしを握ったり、フィギアーで舞ってもろくなことはない。(踊らせる人も踊る人も最低のわきまえは必要だろうに.)
 子どもが見えなくては教育は始まらないし、子どもからの情報処理(能力)なくして教育再生なんてありえない。殆どありえないことをやろうとしている。目的が違うとしか考えられない。1持間の授業の指導計画でさえ、そのクラスの子どもが見えなくてはそれらしいものも書けない。最も最近は子どもを見ないで平気で机上で指導計画を書く人は増えている。(上からの指導優先させられるので) 本当は、あってはならないことだろう。それを国が率先し従来の教育行政で、そしてこの度の教育再生会議で範を示している。これも偽装教育のメカニズムの一端をあらわしている。【国は意識的なのではなく

、単にそのことに気が付いていないだけだとは思うが、困るものは困る。】

 

 

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