「自然と人」の理念に基づく教育観

 

   「自然を中心にした人」 生物的性質が社会的要請に毀損されてはならないのだが、身体感覚や探索行動は社会的価値観の外にある。

  未だ世界は教育理念を「文化の継承発展」とし「自然と人」を理念とした教育原理に据えていない。

   人類の存否が危惧される今日、教育理念の見直しが求められるだろう。

  人は 自然界にある生態系の一部だが 、社会的存在として生体的性質が無視され毀損され生命力を奪われることがが多い。

炭酸ガス排出過剰による温暖化で地球の自然が損なわれるように 人は社会化が行き過ぎ生命力が損なっている。自然や生命あっての人であり文化であることを今一度 見直さないと持たない。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

身体感覚や探索行動の大切さ

 

 「自然と人」の決定的な関係は人のあり様にも影響する。

  本能的な人の身体感覚や探索行動は 行動発展の土台になる反面、失えば 生命活動のバランスを欠いたり生命力の低下を招くのではないか、と思われる。

 不登校や発達障害引き籠りは 多分に関係しているのではないか。

 

   

 

 

   

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

励まされ

 

  生きる力を引き出す?

   何かに遭遇した時 自分の気力が問われる。

   不当な出来事に遭遇して 何クソ! の気が起きればそれが生きる力? かもしれない。 

   嬉しいことに出会って  よし じゃあ 一丁やるか! も同じ。

    その気力に乗って 旅へ出る。 

     出来れば嬉しいことに励まされ旅へ出るのが良いだろうな。

   

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

幾つになってもメンタルコントロール

 

岐阜でのフォーラムでは 自然をキーワードに新たな理念と教育技術を提案する。

 自然を主体にした中身を 自然体で表現出来れば良いのだが。  課題は自分のメンタルだろコントロ—ル。

   

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

子供と大人の動きの違い

 

 

 鳥獣戯画は全体の動きで人の有様を表している。

  その点で 大人より子供の動きに似ている。

   子どもの様々な動きは本能とも思える身体意識の一体性と探索行動の多様性を表しているようだ。動きや行動の目的は型にはまる大人と大きく違う。

   

 

 

  

 

  

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

眠りは深い

 

日曜討論の主題は 台風の被害を受けて 「災害対策」だった。

  学者や大臣 役人などを交えてのものだが 流す放送局も含め 本気さを感じることが出来なかった。グレタさんの言葉を借りれば やっぱり目を醒ましていないようだ。

   

   

  

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

言葉遊び

「   言うは易しく行うは難し」「言行一致」の難しさはいまさらではないが、 

     昨今 特に政治家は 実際は別にして 完璧な物言いが最大の仕事のようだ。

     民生を落ち着かせるのは政治の仕事ではあるが、今ほど 言葉と事実が離れてくると、安心させる言葉が

     余計に不安をあおる。

  為にする物言いは 出来事を部分的に取り上げ聞こえのいい言葉で全体的であるかのよう見せるのを特徴としているようで言葉遊びに似ていて、お笑いと通じたものがある。

     

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ソクラテスは生きている

「人間は社会的動物である。」は 修飾語を除くと「人間は動物である。」である。

 人間は人の顔をした自然界の動物と言うことになるが 全ての動物に見られるであろう身体感覚の機能や探索行動を

  学校は無視し削ぎ落している、と考えている。

   2000年前の0ソクラテスが 不登校ようや発達障害 引き籠り等の原因を示唆していないか。

   宇宙へ行くのも良いが 正に「汝自身を知れ」を教えてる。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

公的な不当な扱い

社会が人をお金儲けの具にしている世の中で 子どもたちが 学校で人間性を剥ぎ落すべく虐待に等しい扱いを受けていると考えられるが 科学的な検証は た易くない。

  歴史的なグローバル化の進展と共に解明されよう が それまで 発達障害や不登校等は 公的に不当に扱われるだろう と考えている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

そこそこ人生の由縁

 

  学校が子供の本能を無視したカリキュラムで教育しているのを不都合に感じながらも指摘できないのは人類自身が

自然の理に反した立場で社会を作り そこで生活しているからではないだろうか。

  歯がゆい気持ちで見ている。そこそこ人生の「そこそこ」の由縁。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ