大うけしそうな ヒトの生態




自然番組で深海のアカハマダラハタやウツボの狩りをするようすをやっていた。その中で「多くの生き物の生態は分かっていない。」と語っていた。突然、人間の生態は どうなっているのだろう? と突拍子もないことを妄想してしまった。

   「どう猛な魚と同じようにヒトの生態を追って番組にしたら 面白い番組になりそう。もっともそれを感心して見るのは         
あの 魚たちだけではないぞ…」
  
       「棲み家や子供を荒らす生き物は珍しい」と 無数の生き物たちに 大うけ。
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仮分数状態





   
   認識空間が分母で 社会の出来事は分子に例えると

    社会の出来事の意味は 認識空間の大きさによって 分数の数値が変わるように変わる。

    出口の見つからない現状の認識は 仮分数状態なのかもしれない。

      仮分数状態が 世界から巷まで 溢れていないか。

     
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半分しか見ずして 語る





例え 時代に合わない拙い人間活動の結果であっても世界の地球化は 希望のの出口。

    しかし、国際的なIS対策や報道が 世界の半分しか語っていない現状を見ると 世界が抱える問題の出口は 遠い。

   COP21でリーダーが集まるが 気候変動の対策は 主要国や多くのマスコミも 言い訳が透けて見え 期待できる状況にはない。

    これまで同様 お金で糊塗し 目標に向けた国際的な規制無しに どうして有効な対策になろう。

    半分しか見ずして世界を語る。
  
人類は 大災害を待つより他 無いかのようだ。








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マヒしている人間でも 思う




    マヒしている私ではあるが

       日野市の小4事件を 警察が「事故死の可能性がる:」として報じられた。

        遊びを誤って事故に繋がったとするのだが 可能性だから 100パーセント否定する気はないが 先ずは 「あり得ない。」 と確信している。

        自殺と遊びでは全く次元が違う。 簡単に言い換えられる根拠をどこに置いているのか。子供の心理や遊びを理解しているとは 到底考えられない。

 
     (私からすると)あいまいなまま いい加減に発表した警察や それを報じたマスコミのそのことによって生じ結果の社会




     的責任はどうする気ですか? 


そのことで他人の一生を 酷く傷つけた としたら それは 新たな犯罪だ と言えませんか。

        マヒしている私でも そう思う。
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マヒしてる 私





商業宣伝の溢れ方は異常ではないのか。

   これも 判断の基準を普遍的な自然の法理に置いてみる。

   宣伝されている物を良いからと言って買い求めると 有限な資源は枯渇するのは必然で地球はもたなく種は滅ぶ。 自然の法理


とは矛盾したこの行為が巷に溢れ、いつしか仕方ないものと諦め 改めて考えないと異常さを感じない。

   同じように感覚マヒし 当たり前で普通 になっているものはこの世界に どれだけあるだろう。


   種どうしの殺し合いも 公であろうとなかろうと公然と殺し合うのは その一つ。そんな種が 他にあるだろうか。

   私たち ヒトは法理に合わない異常な空間を作ってしまい いつの間にか それに馴染み、ここに馴染んでしまっている私が いる。
    
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幻滅




(学者への幻滅)が 私の目に大きく映っている。

   社会的な水先案内の役割や責任を持ち 社会的に 権威を持ち身分も保障されていながら 世界のの現状に対し その多くが 役割を果たしているようには見えない。

 地球と子供たちが悲鳴を上げ 為政者がそれに耳を傾けることなく政策を繰り出している今日 為政者や報道機関をも含め水先案内が必要な時代だ と思う。

 思いだすのは 聖書に出てくる律法学者や徴税する官吏。 あの学者は 諸説を振りまくが真理や道は説けないと。仏教も「絶学無為の間道人(世の中や人の道が解る人)」の言葉がある。

   特に現代の社会的役割や立場からすると 神仏はともかく ある意味で 宗教やを政治を越え 世界や時代を道案内する役割が求められる。

    「地球無くして 人間は存在しない。」「子供たちが人間の将来を背負っている。」この事実を何故説かないか。そもそもかもしれないが 不思議を越えて(幻滅)として映っている。

  

  

   
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感覚マヒ





地球と子供の悲鳴を聞きながら、朝から晩までコマーシャルが絶っれっ放しになっている世界に大して違和感を感じなくなっているような気がする。
 
   かなりの感覚マヒ状態だろう。

    現実社会で生活するには 多少の差あれ 感覚マヒは避けられない。

   お互い 感覚マヒ同士で感覚を研ぎ合わないと サビは増し 使い物にならなくなる。

   世の中に そんな役に立たないものや人は さらにあってはならないものや人ないだろうか?

    勿論 自分は どうだろう。
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(森の幼稚園全国フォーラム)に参加して



諌早の「森の幼稚園ぜんこく全国フォーラム」 は 天国のような3日間だった。子供たちと真っ正面に向き合っている。
  
  これほどの人の集まりを見たことがない。
   
 帰り道 長崎からの飛行機の中は すでに天国ではなかったが、羽田を降りてモノレールに乗ると(地球や子供たちの悲鳴)等には無関係なスマホで耳をふさぎ目を覆ったような異空間だった。
 



京王線に乗ると さらに 表情の暗さと神経質そうなイライラ感まで目に入った。

  それでも 森の幼稚園の全国的な到達点や社教センターでの自分の役割も見えてきた感じがして 大いに力をもらい大満足の3っ日間だった。日本でも(新しい小さな芽)は確実に大きく育っている。さすが人間・

 
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教育とお金



経済社会は 物作りとサービスで成り立っていると言っても良い。 教育は サービスに入る。

   子供の教育が聖職に例えられるほど 余りにも大切な活動だから 経済活動の外におかれがちだが 経済社会にあっては


    厳然たる経済活動一端だろう。

   教育関係者が経済に疎いのは世の常識だが 経済が行き詰まっている今日 逆に経済から教育に積極的な関わりが求められてもいる。

   文系を減ずるようなお門違いの動きもあるが 本当に経済社会に必要な教育をサービスが 必要だから それを実証する実践が 現場に求められている。

   自分のもそうだったが 教育実践者が教育がお金(経済)に疎いのはお門違いの一つかもしれない。
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 求めららる教育





地球規模で動く経済社会が地球の自然と どう関係しているかの研究が必要な気がする 。


    本屋や図書館へ行っても 探しあぐねる。 多分そんな大風呂敷を広げた学問や研究はは無いのかもしれない。

    世界のリーダーが そこを考えていたら 今回のように自然の法理を無視したような結論で一致するはずがない。

    金儲けにうるさい人たちも 地球が悲鳴を上げているのに 地球から得た富を燃やし人を殺して 正義を名乗る。

     これで 経済社会が持続するだろうか。

    上記の研究と教育が (声としては聞かないが)地球悲鳴で 社会からは 無言だが きっと急ぐよう 求められていると思う。


    
  
   
    
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