世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
文明的な年貢の納め時
人間社会は 競い争って 地球の資源を奪い自然を壊して成り立っているが、資源の枯渇や異常気象と言う形で、既に限界が見えている。
自然の枯渇の情報はあまり報道されないから 個人も社会も ほとんど社会的な認識にはなっていないようだが、可なり進行していると(私は)考えている。
国の内外で繰り返されてる争いはしいて言えば資源の分捕り合戦でもあり、強き者が資源の多くを獲得しているが、経済の実態は 資源の枯渇の進行に伴い強者も弱者も分配以前の獲得そのもが難しくなってきている。
ウクライナやベトナムの争いも 各国の経済成長の実態も 資源の枯渇を抜きには 論じられない。
世界に展開している争いや国内的な対立は資源奪い合いであり、現在の安全
保障の論議は その国際的な手段を論じているに過ぎない。
地球的な規模で根源を問うなら、世界は強き者も弱き者も 文明的な年貢の収め時。
やってる事が違う
国の安全が心配だと言う人が どうして 地球が壊れるようなことを止めないで進めるの か?
1国で国の安全は守れない時代だと言いながら どうして 原発を売り歩くのか?
景気が回復したと言いながら どうして 借金を増やすのか?
世界のマスコミも 気が付かない事なのか?
おかしいものは(おかしい)でいいのだ
世界も日本も どこか変(おかしい)だと 今も 思ってる。
体に感じるものと どうしても合わない。
長い事、世界に自分を合わせようとしてきたが どっちが良いのか分からない。
分からないと言うより (おかしい)と感じるのだから おかしく感じるものが
(自分にとっては)おかしい に決まってる。
本気で考えてほしい《安全》
安全保障だの平和だのを口にする政治家は 本当に人々の安全や平和に目を向けてものを言ってるのだろうか?
今日も日本では70人からの自殺者を出し、世界は万を超える飢餓による死者を出している。
圧倒的多数の人々の平和を乱し安全を損なっているのは 日常的な世界であって戦争ではない。 むしろ戦争は 特異な事象である。
与野党は人々の実態を見ないで 派手な空中戦をやっていないか。
この地域も姿を消した生き物は少なくない。先日は 地域で不登校から自殺に至った青年の話を聞いたばかり。
専門家の識別法
有用な専門家かどうかの判断はその人が立場を越えて世界全体の平和に関心があるかどうかで分かりそう。 平和でなければどんな専門的知識も技能も意味をなさないのだから。
平たく言えば、関心に拡がりがあり、相手の話が相手の立場で聞けるかどうか、でないか。
真に受け易いレトリック
1昨日、オバマ氏は軍人への講演で「米国は常に世界をリードしなければならない。」と表明したとマスコミは伝えた。
「テロなどの直接的な攻撃には武力を持って、友好国など間接的な攻撃には経済性で世界を守る。」このような趣旨だったようだ。
この考えが 世界を今日のように難しくしてはいないだろうか?。
特定の国がリードして世界の平和や繁栄が実現するものだろうか?
リードされる主権国家の自尊感情は どうするのか?
全ての国は自国の国益を求めて成り立っているのであって、世界益を求めるために国家を形成してはいない。 世界益を求めるのが国家の目的なら、全ての国は現行憲法では間に合わないはず。
にも拘らず、このような修辞的なレトリックがひろく用いられ通用しているから不思議だが、現実的に上記の言葉に現実感が薄れてきているのは 世界的には良いのかもしれない。
世界平和は 互いの協力によって得られるものであって、競争の高じた争いや支配と被支配の関係からは生まれるものではない。
人は分かっていないで納得する
具体的な説明は 分かり易いのだが、全体と部分の関係から 簡単に部分の理が全体の理とは一致せず、成り立たない事の方が一般的かも知れない。
マスコミは盛んに《専門家》を登場させ、ことの説明に当たらせる。
普通はその権威と知識に圧倒され納得させられる。
しかし、そこには論理的な飛躍のあることを (その経験をした者から言うと)専門家当人もも用いる人も 聞いて納得する人も分かってはいないかもしれない。
社会にとって犯罪は取り除くべく始末した方が良いかも知れないが、始末したからと言って犯罪を生んだ社会の病根は何も変わってはいない。
死刑やテロとの戦いや経済制裁の正当性は 解決を先送りしているかもしれないのに正しく対処しているつもりになる。自分も例外ではない。
物事は つもりや思いで解決しない。事物の関係を本来に変えるしかない。
手遅れの反省
一般的に具体的な自然物を教材にして学習することが多い。
今、反省しているのは切り取った自然物に対する認識が甘くわなかったか、と言う事である。
大自然から切り取り学習するのだが学習した知識をどの程度元の自然に戻して一般化したか、である。
部分的な知識や法則は必ずしも全体とは一致せず、簡単に敷衍してはならない。
この事を良く理解しないまま、色んなことを教えてしまった。
専門職の陥りやすいこの間違いを自分も気が付かぬままずーっとやっていた。
今の行き詰まりを大いに批判しながら自分もその中にいしっかりいたことを、今にして思う。
宗教や哲学以前の道理
「地球や大自然が無ければ…」の知見をタダの1度も聞いたことも見たこともないことを考えると、宗教や哲学以前の常識的な道理なんだと思う。しかしこの常識的な知見は人間中心の人間が自然に獲得できる知見ではなく、むしろ現在の社会の仕組みはその感覚さえ喪失させかねない。
だから、この知見は意図的に教育に持ち込み位置づけないと、社会はますます混乱し壊れないか?
知らなかった当たり前の事
《地球や自然が無ければ人は生きて行けないどころか存在しない。》 この事をただの1度も教わったことは無く、また長く教育の仕事に携わりながらただの1度も教えたことが無い。
この知識は放っておいて身に着く知識だろうか?むしろ高等教育を受けるに従い 専門分野に分かれ、研究対象や感心・意識は地球や大自然から遠のいていくのが普通で一般的なように思われる。
地球や大自然の全体から意識が遠のいた専門家によって社会がリードされ成り立っているとしたら、社会が今日のように行きづまりおかしくなるのは当たり前かもしれない。
自分が上の知識を自覚したのは 定年で仕事を終えしばらく経った、65歳を過ぎてからだった。
« 前ページ |