どっちが闇か?

 

 

台風の近づく空模様を感じながら「戦後史の正体」や「東京アンダーラグウンド」を読んでいた。

知らされない支配関係で動かされてる社会の実態を読んでいるうちに、自分自身が目と耳を塞がれ、闇の中にいることに気づかされた。

イクセントリック(奇異)に見える情報が身体感覚の空白を埋めてくれるから不思議だ。

知らされる情報と身体感覚のズレが教えてくれる。

 

 

 

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重宝な大衆迎合

 

何所も大衆迎合的な言辞を批判しつつ、重宝して権力を通すのは常かもしれないが…

読売新聞の渡辺氏は「小沢や橋下氏は古典的素養に欠けポピュリズムに下る危険性を持つと指摘したそうだ(週刊誌の見出しより)」

合点しないでもないが、邊恒氏に言われたくない気もする。

日本の政治がメディア中心のポピュリズム(大衆迎合の衆愚政治)に走っているのは事実だろうが、この言葉は支配者が権力や権威を正当化する時の抗弁の感が強い。

一方的なメディア情報で形成しされた民意や世論は 本来の大衆の声ではない。

大衆を2重の意味で道具にした言葉に聞こえてならない。

何故なら、意識的にポピュリズムを批判する人が、衆愚政治の背景や先頭に立つ者を指摘したことがあるだろうか?

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止められない景気対策の失敗

目にしてるマスコミ情報の範囲内の話だが、世界経済の減速に対し行われてる各国の中央銀行頼みの金融緩和を歓迎する声ががほとんどだが、中にはその対応を『異常」とまで言い切る社もある(そこは自分も同感)が、その社説も緊縮財政策を排し、『さっさと不況を終わらせろ』と財政規模拡大による景気刺激策を求める。本当にそれしかないのだろうか?

 

 

 

 





 

 

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目指すチンプンカンプンの三っつの山

Ⅰ、情報の良し悪しの選択

Ⅱ 教わった社会の仕組みではなく、実際の仕組みを知る

Ⅲ 自然との関係を知る

      私たちは、この三っつの山を越えないとならないのだと思う。

少なくても大人がその気にならないうちは、子供たちの笑顔と目の輝きを取り戻すのはむずかしい。

今 私たちは、最初の山のふもとを右往左往している感じ。

大人のトンチンカンを横目に見ながら、子供たちの チンプンカン  チンプンカン…   の声が聞こえてきそうだ。   

 

                               (最後の1文は 東京新聞9・21の随筆 筆洗に登場した詩人まど みちお をヒントに )

 

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時代に合った対応


命を守ることは人間はもとよりすべての生命体が最優先する。

だから、安全保障は常に全ての国や国際社会の最優先課題になる。

多くの国の安全保障の歴史は戦争から身を守り平和と繁栄を期し軍を備えた。

現在も世界の多くの国が、そんな歴史的な行動様式を引き継いでいる。

日本も、歴史や憲法の関係がありながらも、軍事力へ傾斜する動きは絶えない。

ところで、今なお続く戦争や紛争を放っておいて良いわけではないが、現在 世界で寿命や不治の病以外で心ならずも命を落としているのは飢餓によ

る餓死それに伴う疫病であり、自然災害や人災による事故死や自死などによる戦争以外の死が数の上では比較にならないほど多い。

加えて、広い意味で経済も安全保障の対象だが、戦後軍によって経済繁栄した例はあまり聞いたことがなく、しかも今は、世界全体の経済危機が危惧され先が見えない時代に入っている。

国家として安全保障は人命を失う数だけの問題ではなく歴史的経過などもあり単純ではないが、歴史的な経過による対応と現状認識に立った対応を

はじめから別物と断定してかかるのも社会科学的な判断としては如何かと思う。

 安全保障はそれを損なう恐れのあるものを同一のテーブルに載せ全体を見渡した上で、どう備えるかを考え、最大限の知恵と資源を傾けたら良いと

思う。



 

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自由

 いろんな所で(自由)と言う言葉が使われる。どんな意味だろう?

文字としては「(自)を起点として」のような意味だが、そもそもの(自)が問われる。

(自)は自分の(自)であり、自然の(自)でもある。

おそらく己の中の人為や人の意識以前の(本来の~元々の自分)のような意味ではないかと考えた。

もしそうだとすると、使われてる自由の意味は人間中心で、辞典や憲法でさえ(公共の福祉に反しない限りとか法律に反しない範囲で~)となっている。

これでは(自)の後者の意味が含まれていない。確かに社会は契約(法律)によって成り立っていると言えるが、人は間違をし、間違った法律を作らないとは言えない。

 例えば、(水は低きより高きに流れる)と憲法や法律で決めても、水は高きより低きにためわらず流れる。

そんな間違いをあちこちでしているようで、(自由)の名でえらい不自由を味わっていないだろうか?

私たちは、元々の意味を見失っているかもしれない。


 

 


 

 

 

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専門家の位置づけ

全てのものが変化するとしたら、人間は変化を察知する力が最も大切かも知れない。

人それぞれのセンサーを持つから人間としては画一的な能力で優劣をつけるべきではない。しかし、ある目的を果たすためにはそれに合ったセンサーが必要であり、社会のためには社会の構成要素をできるだけ広い範囲を見渡して変化を察知する力が求められる。

 社会の一部分の変化を察知する専門家と全体の変化を察知する人のセンサーはは明らかに違う。

財界も政界も学界も専門化し過ぎ、全体的な変化を察知するのは逆に難しくなっているのかも知れない。

普通の一般人の(コモンセンス・常識)の方が全体を察知するにはやたらな事が邪魔せずに向いているかもしれない。

証拠に普通の人は、返す当てないほどの借金を重ねたり、安全神話で安心などしない。

 専門家も大事な役割だが、どうも今も使い道を誤っている事が多いようだ。

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  拘りに拘る

前評判が良くて見てきた松たか子とあべさだおの 映画「夢売る二人」を見て帰りの電車のつり広告、観光ガイドなのか(星と森のロマンへ~)の文が目に入った。これまでもこの種の言葉は目にしてきたが特に違和感は感じなかったのに、今日は「星や森は我々のロマンのため」にあるのか?

と、急にかしこまって考えてしまった。、「星や、森があっての我々の存在」と断定すればいいのと場違な思いが駆け巡った。

「自然の秘境探訪」のようなテレビ番組も以前は素直に興味を以て見られたのだが、最近は「自然は美しい」と言う固定観念だけで報道して良いのか?

もう一歩突っ込んで(今のここ)の現実を報じて欲しいとどうしても思ってしまう。山や海はもとより田舎も目の前の自然も、以前と同じか?
自分でも変な拘りだとは思うが、もう少し拘っていたい。

 

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競争と視野

内向きな村社会と村社会の間のコミュニケ―ションは難しく争いが起きやすい。

協力より競争に偏った競争社会は本質的に内向きになるせいか、国の内外で繰り広げられている対立や争いが、そのイメージと重なる。

協力は視野を広げるが競争に打ち込めば打ち込むほど視野を狭くする傾向がある。競争社会では先頭に立つ者が難しさだろうと思う。

視野の広さが最も求められる政治家は競争や戦いが多いからか視野の広いリーダーらしいリーダーを見つけるのは難しい。

各界のリーダーは競争相手や敵と目される相手とは少なくても6:4で協力関係を作れる感覚の人であってほしい。

今のところ日本の政治家では誰も頭に浮かばない。

人類は協力社会は知的で誇れても競争社会は誇って言えるような社会ではない。

 

 

 

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必要な埋め合わせ

世界のあちこちでデモが多発しているようだが、その要求の是非は別にして内外に横たわる亀裂のような隔たり感を感じる。

人と人、組織と組織、国家と国民、国と国…デモではないが(いじめ)にも、いじめる子といじめられる子の間にではなく、子供と大人の間にも、大きなすき間を感じる。埋め合わせを忘れて来なかったか?。

 

 

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