テロとの戦い

アメリカを中心としたテロとの戦いの御旗。日本は官から民への御旗。学校は基礎学力の御旗。家庭は「あなたのため」の御旗。御旗のはためく下に、地雷が埋まり、自爆テロが頻発し、自殺と病気が蔓延し、子供は学校へ行けなくなり、障害児にされる。
2~3年前、心に傷を負った子が、学校へ行けなくなり、他人を怖がり口も心も閉ざした子との2年間のたっぷりした付き合いで、その子を通して私に見えた外界の心象風景けである。その風景の中では、日本にも自爆(自殺)や自爆テロ(他人を巻き込んだ自棄行為)
も他人事ではないし、何かの拍子で爆発する地雷は日本各地に無数に埋められている。その数は増える一方で処理どころの話ではないようだ。
正義の御旗と、旗の下の風景がちぐはぐだ。正義の御旗はみな、人が人に向けた言葉だ。しかも強い者から弱い者へ。今、旗の下の人々が求めているのは住み着く大地と仲間と時間ではないか。勿論、お金をせがんでいる姿ではない。今求められているのは一言で言うと、人と人が対峙するのではなく、人がみんなで人の内外の自然に向き合い、内外の自然と協調し、しっかり付き合うことではないだろうか。

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人口減少 悲観ばかりではない

前の日記の続きになるが、上記のタイトルは、同日の朝日の社説の見出しだ。対策は分配の変更を求める域を脱していない。補足的には生活の価値観を見直すことやグローバル化の中で,一国だけで人口問題を考えてもしかったないと述べている。まったく、人口減少の背景や原因が解っていない。これがお堅いと言われる大新聞の現状だ。社説だから担当論説委員の個人の見解ではない。朝日としての論説だ。今回は他の新聞と読み比べる気にもならない。
繰り返すが、子供を生むのはその子が自分より幸せになってほしいと願ってのことであり、その可能性が見出せなかったら家族を持つこと自身も、子供を生むこともためらう。子供の幸せは物質的な豊かさもないとはいえないが,子供を生み育てた経験があれば、それよりもっともっと大事なことがあることは、誰でも経験している。お金持ちは子供を多く生んでいますか?いますか?子供を育てなくても自分自身に問いかけると、そのことは子供でもわかることではないか。社説のようなこと葉子供だっていいません。ぷんぷん(勿論反論はあるでしょうが、私なりに根っこの部分を単純化してみたのです)
あまりにも情けないので、少しなまっているがやっぱり「あさし(浅し)新聞」がいい。(こんなに悪口を言うなら購読しなきゃいいと思うのだが、心配でそれもできない)
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人口減産めぬ現実

日本は今年(2005年)から人口減に転じたと、新聞で大々的に取り上げられた。「人口減産めぬ現実」は朝日新聞(浅し新聞は間違)の1面トップの大見出し。世界多しといえども、戦争もせず経済が栄える中で人口減になったのは、史上初めてではないだろうか。先進国は全体に少子化傾向にあるが中でもトップを切った。しかも、政府やメディアは1ヶ月前までは、2007年から減少すると予測してきたから、はやりの言葉で言えば「人口減の前倒し」か。
朝日はいまさらながら大げさすぎるし、しかも原因を社会全体のせいにしている。まずは自らに目を向けてほしい。
日本は世界の実験室とかねがね考えてきた私は同様なことがほかにもいろいろあるので驚かなかった。むしろ報道姿勢に問題を感じた。
今の流れで行くと、5年もしないうちに、誇ってきた平均寿命も止まり、短命に向きが変わるだろうと考えている。他との調和も考えない極端な経済成長の一元論で子供から老人いたるまで命や生活を犠牲にしてまで、がむしゃらに突っ走る日本は人口が減ったり寿命が短くなるのは、ごく自然ではないだろうか。人口減の原因を経済に求め、子供手当てなど対策を考えているようだが、その人たちの倫理観を問いたい。どんな時代であれ、親は子供には自分より幸せになってもらいたいと願って子供を生む。あの大変な戦中・戦後だってその希望があり人口は増えた。はるかに豊かな現在将来に希望が持てないでいるのであって、現実把握が浅すぎる。だから対策を立てっても結果は出ないのは当然だ。
世界の実験室は今後もいろいろ結果を出して見せてくれるだろう。「超先進国」と揶揄したくもなる。大きな天罰がない限り自らはブレーキをかけられないのだろうか。
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官から民へ・小さな政府

「政治は言葉」という言葉がある。政治は言葉しだいという意味だ。
 タイトルの言葉は今の政治が目指している言葉。
 官から民へ何が移るのか。小さな政府で何が小さくなるのか.ちょっと立ち止ま って考えてみた。
 いつの時代もどこの国も、国(政府・官)は税金を集めそのお金で、国民の生活を守るという約束が前提に成り立っている。要するに社会は契約によって成り立っている。その上で、今何を官から民へ移そうとしてるのか。
税金の徴収が民へ移るとは思えない。むしろ税金はじめ、医療保険や年金の掛け金など官へ納めるお金は増えていく。なのに政府は小さくなるという。小さくなる官や国の入金は大きくなる。
それでは、国民を守る出口の方はどうか。
年金や保険で明らかのように、給付は減り、結果、医療機関・薬剤(民)への個人持ち出しは増えている。教育費にいたって塾などでわかるように民への持ち出しも増える一方になっている。
要するに政府や官から言うと、入り口は大きく、出口は小さくということになる。国民から言うと、出費は官へも民へも増えるだけということになる。これらが官から民への実際だろう。部分的には正しい言葉遣いだ。
国が大きな借金を抱えているのだから仕方がないし、努力されてる方々には、意地悪なな言い方かもしれない。ただ、「政治は言葉」などといわず、ありのまま正直に言ってほしい。メディアだって判っているはず。
どっちにしても国全体として豊かにならなければ借金も返せないし、国民も豊かにならないだろうと考えるのは普通。小泉さんもそう考え一所懸命なのだろう。国が金儲けをしようと思えば、大企業を中心に国際競争に勝つ他ないと多くの人が考えのもしかたないかもしれない。だが望まなくても結果として格差社会になる。そして治安が乱れ犯罪が増える。(これは、世界のどの国にも言えること)今の形で勝ち抜こうとすれば、国内的には治安を維持する力(警察など)、国際的にはまさつにまけない防衛力が求められる。小さな政府といいながら小泉さんはじめ政府の権力は強化され、公務員は減らしても、警察は増やす。平和を願うと口にしても防衛体制を強めなければならなくなる。国の内外のどちらから見ても強い政府の道を進んでいるではないか。これも国際競争でお金儲けしようという従来の経済の論理で言えばある程度(勿論限度はあるしそれも問題ではあるが)やむをえないことだろう。
40年前までならそれも仕方なかったかも知れない.しかしこんにちは、経済の上からも、地球と人間との共存が求められているのではないか。今向き合わなければならないのは、資本家と労働者ではなく、特定の国と国ではない。人間が真正面に向き合わなければならないのは足元の地球ではないのか。先日テレビで、元、上野や多摩動物園の園長さんだった増井光子さんが、今日の自然の壊れかけた状況を変えるには、「人間が価値観をかえるしかない.これは人間の存亡にかかわるようなことだ」とお話をされていた。まったく同感だ。
「政治は言葉」が通用する今日だから、国や社会が価値観を変えるにはまだかなり時間はかかるだろう。しかし、「政治は言葉」などとのんきなことを言ってる状況だろうか。権威や風説はほとんど役に立たないから、身近な現実をしっかり見て感じとり
自分にできることをするしかない。心細くはない、現実と地球や自然が応援してくれる。
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機能マヒ

連日メディアを賑わす、マンションやホテルの偽装建設事件の報道は先の選挙のように、どこか劇場じみている。最たるものは国会の証人喚問だった。
原因や責任の究明に違和感を覚えてかなり日がたつ。端的に、大規模な違法行為が明らかになっているのに,警察などの司直がここにきて(国土省の告発で)やっと動き出したことだ。この間,自殺・自己破産・離婚など関係者の中に、事件と無関係とは思えない動きがあった。他の違法行為だったらどうだろうか。刑事事件はもちろん、詐欺などの民事事件であっても、証拠隠滅や、資産の隠匿などもあって、容疑の段階で捜索など即座になされる。ビラを投函しただけで、逮捕され70日も留置される今日なのだから。
三権分立で言えば司直は行政の要請ではなく法の番人として独自の判断でうごくものではないのか.違法行為に確認の公印を押してきた所轄監督官庁の責任の取調べは誰がするのだろうか。建築許可書を出した行政は「騙された」では済まないだろう。だからかもしれないが、捜索が入る前から早々と損害を「公費でカバーする」との行政の対応表明がなされた。
他の詐欺事件ではどうなのか。行政が肩代わりしてくれるだろうか。それこそ自己責任やリスクとして処理されるだろう。少なくとも行政はそれなりの手続きをとった後のしかるべき対応としてなされるのではないか。JR西の脱線事故を始め教室の事件にいたるまでいろいろな事件が
「一事が万事」といいたくなるほど、原因と責任があいまいにされてきた。事件はワイドショウ的事件としてお茶を濁し落着させ、同じようなことを繰り返えすパターンがずーと定着してきている。新聞やテレビの報道が今回も雑魚を追い掛け回し真の原因や責任から目をそらせるのに躍起になっているようにさえ見える。国会で証人喚問で責める議員さんだって立法府の責任者として威張れる立場にはないはず。「すみません」の一言ぐらいほしいものだ。
自殺や犯罪を含め一連の事件は自然現象ではなく社会現象であり原因が社会にあり原因を取り除けば改善するのは明らかなのに現実のデーターはは悪化の一途。にもかかわらず、最近の世論調査では現状に「幸せ」と感じ、「満足している」人たちが8~9割に及ぶそうだ。総じて、社会のシステムとしての機能から個人の感性にいたるまでかなりマヒしているのではないか。勿論私だけ例外であるはずはない。
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共産党に一言

昨日、ポストに「新聞赤旗」の宣伝紙が2部入っていた。志位委員長の大会に向けての、2つの方針が大きく載っていた。1つは綱領にもとづいた決定を党員が学んで生の言葉で大衆に語ってほしいということ。いま1つは、大会に向けて党勢拡大を支部の政策と計画で進めてほしい だった。私の感想の結論を言うと、共産党は唯物的科学的社会主義という「観念」に取り込まれている観念論的な政党だということだ。方針や政策の決定。その学習、その評価も現実が優先されなければ意味がないはずだ。そのことに気がついていない。人為が意味を持つのは現実に対した時だけではないだろうか。革新政党や労働組合が長期低落傾向をたどっているのは、悪く言えばお金や権力もないのに観念的な遊びをやっているからだろうと思う。そんな余裕はないはずだ。世の中、上から下まで右から左まで押しなべて、リアリティがどんどん希薄になっている。人間の内部も外界も自然(法)から乖離するばかりだ。天罰がこんなに下っているというのに。退廃的な文化的な流れと相俟っているせいか反省の言葉はめったに聞けない。
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暮らしと生活

「幸せに暮らしていました」と言っても、「幸せに生活してました」とはあまり言わない。中身は同じなのかもしれないが、感じが違う。「田舎暮らし」はイメージしやすいが、都会は「都会生活」の方が似合う感じだ。昔話ならほとんど「暮らしていました」となるだろう。暮らしには共同体的な季節や自然、周囲の人との関係も含んでいる。「生活」はどこか都会的で、周りのものがそぎ落とされてる感じにになる。
それでは「都会暮らし」はどうなっているのだろうか。例えば「家族の暮らし」はどうだろうか。昼食は別にしても朝ごはんと晩御飯だって家族はどのぐらいそろっているか。詳しくは書かないが、教室に来ている子どもたちに聞くと、そろっているのはほんの1部で例外的にさえ見える。当然家族団らん、家族のコミュニケーションなど望むべくもない。家族のお出かけはあるがあれは暮らしとはいえない。(恥ずかしながら、私自身子育てが終わってから気がつきました。)誰しも何とかしようと頑張ってはいるのだが、社会や生活の仕組みの壁は簡単には破れない。人は落ち着いた暮らしがないから、他のことで紛らさざるをえない。今や、田舎も似たり寄ったりだろう。とどめようなく続いてる異常な社会現象は
日本全体に広がっている。
ところで、暮らしのないところで、子どもが生まれ育つとしたらその子どもはどうなるだろう。
「暮らし」の中には心の居場所を含んでいるように思うが、もしこれが子どもに与えられていなかったら、あの小さくやわらかい赤ちゃんの心はどうなるだろう。健康に丈夫に大きく育つだろうか。この実験はすでに何十年と続けられている。、結果も目に余るほど出ている。
政治家も学者もメディアもほうたらかしならまだしも、さらにアクセルを踏んで拍車をかけてる感じだ。私自身もこうして書くぐらいしか出来ない。あせる気持ちはないが、自分は何が出来るだろうかと考える時間は増えている。
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