艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

半分溶けた雪だるま、そんなカンジさ。

2007年04月28日 23時32分00秒 | 個人日誌
 ザザ~…ザザ~ン ザザ~

 波の音。どうしてかわからないけどわけもなく気持ちがのらない時や根拠がないのに、悪いことばかり考えてしまうとき。海に行ってただボケボケするけど、解決にはならないな。なんか良くなった気分になるだけだ。
 だって海はそこにあるだけで、別に俺の心も誰に心もをどうにもこうにもしてくれないし。
 「海に行って、波の音を聞いてると心が洗われる」そんなの嘘だ。
 「太古の生物としての水中で暮らしていた記憶が、波の音を安らかなものだと感じるから落ち着く」それも嘘だ。
 海の中で暮らしていた頃なんて、常に天敵の脅威に晒されていたのだから今よりも安心できていたはずがない。遺伝子的にどうだ、α波がどうだ…適当なこと言うなよな~。

 星空を見上げてるほうがまだいいな。音がないから。満天の星なんかここ何年も見てないけど。

 何年も前に十勝の池田町で中継の準備に前日入りして、その日に夜見た星空は最高だった。
 真冬の寒い時期だったからモコモコの防寒着で、真夜中に空を見上げていた。見渡す限り360度の星空が、空ごと落ちてきそうで、立ったままグルグル回って眺めてた。一人で。

 今もしも、誰かと満天の星空を眺めることがあったら、僕はその人に延々とスタートレックの話をするな。

 未練がましい。
 よく映画やドラマなんかで、過去の失敗や気持ちを吹っ切って「今日から新しい自分!」みたいなストーリーがあるけど、それってどうなの?
 過去をそんな簡単に(映画やドラマではもちろん「簡単に」ではなくて、そこに至るまでの感情の変化を理解しやすいかたちで描写してるけど)もう過ぎたこととして、次のステップへ進みますって考え方は僕には難しい。(難しいというか、そんな道はない)
 「自分できちんと考えて選んだ道だから後悔はない」というものは想像できない。
 「別に過去をさっぱり忘れて切り離したわけじゃあないでしょ。過去も経験があるから今がある」
 そんなことは今さら知ったフリして、ここで声を大にして言うことじゃあなくて、誰もが思ってることだろうけどさ。

 大事にしてるから故じゃあないの?忘れないのは。
 過去も自分の一部として、その服を心の引き出しのあまり開けない棚にきちんと畳んで収めておいても、たまにそのことを考えて、「うわー」とか「助けてー」とか心は叫ぶ。
 「どうでもいいや、過去のことだし」終わったことだと言って切り捨てれば、それってダースベイダーと一緒さ。
 人より忘れっぽいけど、痛かったこと思い出すと「わぁーわぁー」って泣く。夜中に目が覚める。歩いている途中でうずくまる。どんなひとでもきっとそうなんだろう。(ダース・ベイダーだって、結局捨てられなかった。捨てたつもりでいただけ)

 若いうちから(青年14歳)、過去に踏ん切りをつけて成長したつもりになっていると、大人になってから捨てたつもりの記憶に囚われて性質悪いことになると思うんだよね。
 解決しない問題なんかは個人のレベルでも、ありとあらゆるところにいつもそれが溢れていて、そのひとつひとつは関連がなさそうで、それでいながら全てが関連づいていて、とてもやっかいだ。
 気がついたときに対応しないと、ずっと怖い思いをする。(じゃあさ、気がついたときに対応すれば、あとあと悩まないのか?と聞かれれば、その答えは僕にもわからない。そして気がつくのは、だいたいあとの過ぎ去ったと思い込んだ時なんだ。誰もが)

 このブログを読んでくれてるかたがたは僕がもう何年もどういう日常を送っているか想像することができるだろう。(ブログそのものはこの何ヶ月で始まったものだけど)
 僕は想像しない。誰かが今頃、今この時間をどう生きているのか祈ることしかしない。

 いつも別れたあと考える。次に会えるのはいつなのか。どうすればまた早く会えるか。なにをすれば会えるのか。
 (とりあえず目の前のことを少しづつこなしながらその日が来るのを待つしかない。だから会うときまで暮らせていられるよう仕事しよう。仕事は面倒だけど次のときのために働こう。)結果だけを求めているわけじゃあないからな。

 冬の真夜中に星を見上げたあとに、雪だるまを作ったとして。小さな雪だるま。朝、出掛けるときに見るとそれが朝日を浴びて溶けかかっていた。
 新たに雪をくっつけて形を戻そうとは思わないよね。雪を注ぎ足しても帰ってくる頃にはまた溶けているか、形も崩れているかもしれないし、なにより朝の慌しい時間に(「早く電車に乗らなくちゃあ」「バスに乗らなくちゃあ」)そんなことをしている余裕はない。
 それでも朝に玄関を出て、溶けてるのを見れば、「ああ」とは思う。