平成19年7月5日(木)
「廃屋」
これは山鹿灯籠でお馴染みの山鹿市郊外の、とある廃屋倉庫です。今は取り払われてありません。描いている時、操作を誤った老人のテーラーの下敷きになり、かなりのケガを負いました。幸い、押し倒された下が里芋畑で柔らかかったために死ななくて済みました。老人が5千円握りしめて、これで勘弁してくださいと震えながら言うので「心配しなくていいですよ」と救急車も断りました。
近くの若奥さんが親切に応急手当をしてくれました。帰って病院にかかったら5千円の何倍もの治療費を要しました。若奥さん宅には後日、傷が癒えてからお礼に伺いました。老人からは1円もいただいていません。イーゼル(画架もパレットもめちゃめちゃに壊れましたが、奇跡的にこの絵は残りました。
「阿蘇根子岳」
阿蘇の山では比較的険しい山です。登山家が好む山でもあります。学生時代も良く登りました。
ひとりで登って下山の途中雨に遭い、濡れ鼠になって温泉宿に転がり込んだら、自殺未遂者と間違われ、階段下の狭い部屋に通されました。食事を持ってきた仲居さんと話しているうちに、この宿が小学生の修学旅行で泊まったことが分かり、途中で2階の眺めのいい部屋に通されました。初めからはっきり言えば良かったのに、泥だらけのみすぼらしい格好が誤解を生んだのでしょう。
この絵を見るとあの温泉宿の風呂の温かかったことをいつも思い出します。
「天草の段々畑」
以前は熊本の天草の島々は天に届くような高さまで、段々畑が耕されていました。狭い耕地を耕し、小麦やサツマイモを植えていましたが、過疎になり耕す人もいなくなり、今は草木が生い茂っています。
「阿蘇外輪秋景」
阿蘇には今も気が向くと出かけています。秋の夕陽に照らされる外輪は好きな原景色の一つです。穫り入れが済んだ田んぼを見つめているとそのままこの景色の中に埋没してしまいたいような郷愁を感じます。
「阿蘇暮色」
これは最後の勤務職場に退職記念に贈った絵です。ブログ友の^-^ayuraさんが以前アップされたものをお借りしました。私の手元には写真は残していませんでした。たまたまこの職場をボランティアで訪問されて写してくださっていました。
私の小学4,5,6年のKN先生はスポーツマンで絵の先生でもありました。先生からは絵心を教わった気がします。
先生は具象絵画の示現会会員です。以前、脳梗塞を患われ右手足が麻痺されましたが、リハビリの甲斐があって傘寿を迎えた現在でも左手で絵筆を握っておられ、絵画教室で後進の指導に当たっておられます。
私は小学生以後は直接接先生からは教わってはいませんが、時々見せにいき、指導を仰ぐこともあります。人生の恩師と言えます。
この頃はもう絵筆をとることはほとんどありません。スケッチ程度です。
「廃屋」
これは山鹿灯籠でお馴染みの山鹿市郊外の、とある廃屋倉庫です。今は取り払われてありません。描いている時、操作を誤った老人のテーラーの下敷きになり、かなりのケガを負いました。幸い、押し倒された下が里芋畑で柔らかかったために死ななくて済みました。老人が5千円握りしめて、これで勘弁してくださいと震えながら言うので「心配しなくていいですよ」と救急車も断りました。
近くの若奥さんが親切に応急手当をしてくれました。帰って病院にかかったら5千円の何倍もの治療費を要しました。若奥さん宅には後日、傷が癒えてからお礼に伺いました。老人からは1円もいただいていません。イーゼル(画架もパレットもめちゃめちゃに壊れましたが、奇跡的にこの絵は残りました。
「阿蘇根子岳」
阿蘇の山では比較的険しい山です。登山家が好む山でもあります。学生時代も良く登りました。
ひとりで登って下山の途中雨に遭い、濡れ鼠になって温泉宿に転がり込んだら、自殺未遂者と間違われ、階段下の狭い部屋に通されました。食事を持ってきた仲居さんと話しているうちに、この宿が小学生の修学旅行で泊まったことが分かり、途中で2階の眺めのいい部屋に通されました。初めからはっきり言えば良かったのに、泥だらけのみすぼらしい格好が誤解を生んだのでしょう。
この絵を見るとあの温泉宿の風呂の温かかったことをいつも思い出します。
「天草の段々畑」
以前は熊本の天草の島々は天に届くような高さまで、段々畑が耕されていました。狭い耕地を耕し、小麦やサツマイモを植えていましたが、過疎になり耕す人もいなくなり、今は草木が生い茂っています。
「阿蘇外輪秋景」
阿蘇には今も気が向くと出かけています。秋の夕陽に照らされる外輪は好きな原景色の一つです。穫り入れが済んだ田んぼを見つめているとそのままこの景色の中に埋没してしまいたいような郷愁を感じます。
「阿蘇暮色」
これは最後の勤務職場に退職記念に贈った絵です。ブログ友の^-^ayuraさんが以前アップされたものをお借りしました。私の手元には写真は残していませんでした。たまたまこの職場をボランティアで訪問されて写してくださっていました。
私の小学4,5,6年のKN先生はスポーツマンで絵の先生でもありました。先生からは絵心を教わった気がします。
先生は具象絵画の示現会会員です。以前、脳梗塞を患われ右手足が麻痺されましたが、リハビリの甲斐があって傘寿を迎えた現在でも左手で絵筆を握っておられ、絵画教室で後進の指導に当たっておられます。
私は小学生以後は直接接先生からは教わってはいませんが、時々見せにいき、指導を仰ぐこともあります。人生の恩師と言えます。
この頃はもう絵筆をとることはほとんどありません。スケッチ程度です。