地元の地蔵講の存続のためにと、
まずは近隣の地蔵を調査しよう
と歩いての調査を始めています。
ウォーキングの靴をはき、
マップを手に歩きはじめましょう。
まずはdoironが今講をやっている
わが町の地蔵堂からお参りしていきます。
これは家から歩いて
200mくらいのところにあります。
子どもの時からずっとそこにあって、
我々の暮らしを見守ってくれている地蔵です。
子どものころ、みんなで小学校に行くときに、
そこでよく待ち合わせしましたね。
地域の子供たちにはとても身近な存在です。
そんな地蔵ですから、
新しい地蔵堂を建てる時には、
皆さんから2,587,000円の寄付があり、
できたものです。
なかなか皆さんの地蔵にこもる
思いがわかりますねえ。
そんな立派な地蔵堂の中にある
6体の地蔵がこれです。
え?5体しかいないやんて
6体ですよ。
ほらこれ。
もちろんうちの地蔵は心も広く、
誰でも見れるんですが、
ネットでは初めての御開帳ですね。
なんかねえ、とっても思いが
こもっている姿でしょう。
真ん中の地蔵は姿がきれいですね。
でも横に立っている地蔵なんかは
顔がなかったりします。
まあこのあたりの地蔵は、
和泉砂岩で彫られたものが多くて、
風化しやすいんですね。
そこへもってきて信者が
なでたりするもんやから
こんな姿になっています。
それはまた逆に、より親しまれてきた
地蔵って感じもしないではありません。
ではこれらの地蔵はいつからあるんでしょうか。
地蔵そのものからは
あまり年代はわかりません。
でも一つ、年代のわかるものがあります。
それが、地蔵の横にあるお線香立てです。
ここには六歳講と彫られていますが、
これは六斎講の当て字だといわれています。
僧の空也のおどりねんぶつから発したもので、
8、14、15、23、29、30日に
鐘、太鼓でおどり念仏を行うというもので、
その辺の時代背景を持った言葉です。
もしかしたら、講の名前を
六歳講としていたのかもしれませんが、
そういう記述なんかはどこにもありませんし、
それを知る人などもう生きていません。
そして引き継がれてもいません。
そしてそのお線香立てには
「文▢十一天 戌 七月廿四日」
と刻まれています。
▢に入る文字は“化”か“政”と
考えられますが、
戌年であると考えると
“化”であると考えられますので、
文化11年に設置されたことがわかります。
西暦で言うと1814年のことです。
200年以上前ですね。
面白いのは、この線香立ての上に
彫られてあるすり鉢状の
窪みなんだそうです。
おやじが郷土歴史家に聞いた話では、
妊婦が神仏に安産を祈りつつ、
石の面をこすりつつ彫ったものなんだそうです。
こんな石があるところは近辺で
あと一か所だけなんだそうです。
小さな石の窪みにも
そんな歴史があるんですねえ。
なのでまあ、わが町の地蔵には
かなり古い年月が刻み込まれて
いるものだと考えられます。
そんな地蔵に線香をあげて、
賽銭を入れてお参りしてゆきます。
地蔵参りなので、線香の束に入った
袋持参できています。
これがねえ、ふきっさらしなんで、
なかなか火が付きません。
はたから見てたら、なんか地蔵に
悪いことをしてるんじゃないか
と思われないかかなり心配ですが、
地蔵みたいな頭や格好なんで、
わかってくれると思うのですが・・・
何とか線香に火をつけた後、
「ではこれから、地元の講の人たちの
地蔵への思いをちゃんと進めていくために、
近辺の地蔵をお参りしてきます」と告げ、
今の地蔵講の代表であるdoironは
隣村へ向かって歩きはじめるのでした。
続く