デンマンのブログ

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銭湯と円タク (PART 1)

2019-01-04 10:50:23 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

銭湯と円タク (PART 1)

 


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デンマンさん。。。、新年そうそう 銭湯ですかァ~? 今時、銭湯に入るネット市民は居ないのではありませんか? それよりも、銭湯を見つけることができないんじゃありませんかァ~?


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ジューンさんは銭湯に入ったことがありますか?

ずいぶん前ですけれど、入ったことがありますわァ~。。。

 


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あれっ。。。 他に誰もいないじゃありませんかァ~!



この時は、午後3時に始業になるはずだったのですけれど、わたしのために30分ほど早く開けてくれたのですわァ~。

この銭湯は今でもやっているのですか?

5年ほど前に廃業したそうです。。。 で、デンマンさんは、どういうわけで銭湯を持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



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天正18年 1590年

豊臣秀吉は4月3日に北条氏直の小田原城を包囲攻撃しはじめ、3ヵ月余の長い日数をかけて7月5日に降した。

7月13日に秀吉は小田原城に入場し、後北条氏の旧領を併せ、全国制覇の足がかりんをつくったが、後北条氏旧領は従軍した徳川家康に与えた。
家康は8月1日に江戸に入場し、そこを拠点とした。

江戸は長禄元年(1457)に大田道灌が築城してから城下町として発展するようになったが、すでに交通・商業の中心地であった。
後北条氏の旧領の関東地域を領有することになった徳川家康が、この江戸を根拠地として城下町の建設に努力したことは賢明であった。
そして、慶長8年(1603)からは、政治の中心としても進めていった。

 (9ページ)




天正19年 1591年

夏: 江戸の銭瓶橋(千代田区元道三堀、現なし)に銭湯風呂を開業(入浴料、永楽1銭)。

 (10ページ)




寛永6年(1629)

9月: 米沢藩主、153歳の長寿の領民を饗応する。

 (48ページ)




寛永10年 (1633)

江戸に湯女風呂流行。
湯女(ゆな)を抱えおいた風呂屋。
湯女はもともと垢すり女であったが、酌取女ともなり、さらに売春するようにもなってきた。

 (52-53ページ)




寛永14年 (1637)

12月: 江戸吉原大門内の風呂屋37人を磔刑。

湯女風呂の湯女は1軒に3人かぎりと定められ、違反者は大門外で処刑する。

 (57ページ)




寛永16年 (1639)

12月: 江戸吉原の遊女屋が湯女風呂に抱えの遊女を託して売春させたことが発覚して処罰される。

今は町毎に風呂あり、びた15銭20銭づつにて入るなり…。




正保2年(1645)

2月: 風呂屋に女を抱えて、客を宿泊させるのを禁止する。

 (66ページ)




慶安5年(1652)

湯女の転売・転借が禁止される。

明暦3年 (1657)

6月: 江戸の風呂屋に遊女(湯女)を置くことを禁止する。

 (82ページ)




元文6年 (1741) 将軍:徳川吉宗

4月: 公認の瀬取船・湯船・水船・小間物野菜付船以外の無札の小船が品川沖の廻船に近づき水主と密売買することを禁止。

江戸湯船

湯船は船内に据風呂を置いて一人3文というように料金を取って入浴させた船で、行水船・居風呂船ともいった。

 (204ページ)

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『江戸時代年鑑』
著者: 遠藤元男
2017(平成29)年4月25日 初版発行
発行所: 株式会社 雄山閣




あらっ。。。 デンマンさんは年鑑を借りて読むのですか?



いけませんか?

だってぇ~、ずいぶんと分厚い本なのでしょう!? 持ち帰るのが大変でしょうに!?

それほど厚い本ではないのですよ。。。

。。。で、上の年鑑を読んで“銭湯”の名前の由来に興味を持ったのですか?

その通りですよ。。。 それで、『ウィキペディア』で調べたら、次のようなことが書いてある。。。


銭湯


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銭湯(せんとう)は、日本の公衆浴場の一種。
風呂屋(ふろや)とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる(詳細は後述)。

 

歴史

 

古代

日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。
病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった。

 

中世

鎌倉時代になると一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった。
これが銭湯の始まりと言われている。


『日蓮御書録』によれば、1266年(文永3年)、四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」とあることから、詳細は不明ながら、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられている。

なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺に1239年(延応元年)再建、1408年(応永15年)に修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている。

室町時代、京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。
この頃、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった。

また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた。
なお、室町時代末期に成立した『洛中洛外図屏風』(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている。

 

近世

江戸における最初の銭湯は、徳川家康が江戸城に入って間もない1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した。
当時の銭湯は蒸気浴(蒸し風呂)の形式であった。

その後江戸では、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)。

さらにその後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が登場した。
細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえ分からないようにして入浴するというものであった。
後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。

こうしてだんだんと薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。

男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。

浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。
蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。

1791年(寛政3年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。

 


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江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた。

当時の銭湯は、おおむね朝五ツ(現在でいうと午前8時頃)から夜五ツ(同じく午後8時頃)まで営業していた。
当時の銭湯は庶民や下級武士たちの娯楽・社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。
特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。

式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。
当時の銭湯の入り口には、矢をつがえた弓またはそれを模した看板が掲げられることがあった。
これは「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落の一種である。

なお、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から庶民の家で内風呂を持つことは基本的に禁止されていた。

江戸時代末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったが、それでも江戸の住民の大部分は内風呂を持つことが経済的に困難だった事情もあって銭湯を利用し続けた。
19世紀初期の文化年間(1804~1818年)には、人口約100万~120万人の江戸全体で600軒以上の銭湯があったという。



(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真とイラストはデンマン・ライブラリーより)

出典: 「銭湯」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




上のどこを読んでも“銭湯”の名前の説明がないのですよ。



でも、鎌倉時代に書かれた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」と書いてある、と出ていますわァ~。。。

だけで、それは湯銭であって、銭湯ではないのですよ。。。

でも。。。、でも。。。、そのすぐあとに、詳細は不明ながら、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられていると書いてありますわ。。。

でも、それは、上の説明を書き込んだ人が勝手に銭湯だと決め付けているだけで、納得できるような名前の由来が書かれてない。

。。。で、デンマンさんは、その名前の由来をどこかでゲットしたのですか?

だから、上の年鑑ですよ。。。 銭湯風呂を開業(入浴料、永楽1銭)と書いてある! つまり、入浴料が永楽1銭だから、1銭で入浴できる湯の風呂で、銭湯ですよ。。。

それは、デンマンさんのこじ付けではありませんか?

いや。。。 そうじゃありません。。。 同じように名づけられたものがある。。。


円タク


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1912年(明治45年)7月10日、東京市麹町区有楽町(現東京都千代田区有楽町)にタクシー自働車株式会社が設立され、8月5日から本社前でT型フォードを6台使用して旅客営業を開始した。
これが日本における、自動車を使用したタクシーの最初の営業であった。

このタクシーは料金メーターを搭載して「辻待ち自動車」と呼ばれており、上野駅と新橋駅を拠点に営業していた。
料金は最初の1マイルが60銭、以後1マイル毎に10銭増しであった。

その後、1914年(大正3年)には東京駅が開業したことにより、同社によって東京駅でも営業が行われるようになった。

その後タクシーは全国に普及するが、当初は料金体系がバラバラで苦情が多かったことから、1924年(大正13年)大阪市内を1円均一で走るタクシーが登場した。
これを円タクという。


円タクは、2年後、東京市にも登場した。




出典: 「日本のタクシー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、1円均一で走るタクシーだから、円タクなのですよ。。。 それを銭湯に当てはめれば、永楽1銭で入浴できる湯の風呂だから、銭湯と呼ばれるようになったわけです。



マジで。。。?

円タクという名前の由来を考えれば、この説明が最も自然じゃありませんかァ!

でも、上の年鑑によると。。。寛永16年 (1639)には「今は町毎に風呂あり、びた15銭20銭づつにて入るなり…」と書いてありますよね。。。 50年も経ってないのに、どうして急に15倍から20倍も風呂代が跳ね上がったのですか?

あのねぇ~、“びた銭”というのは、“信用度の低い悪い銭”のことなのです。。。 当時、日本で作られたお金は信用度が低かったので、中国から輸入された“永楽銭”が信用されて、庶民の間で使われていた。


永楽銭


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永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国の明朝第3代皇帝・永楽帝の代、永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。
日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。
永楽銭、永銭などと呼ばれた。

明の永楽帝の時代に永楽9年(1411年)から作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は当初は明の国内でも流通していたのだが信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。
永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。

従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗、破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭、鐚銭の流通が中心であったとされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見されそれらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから伺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い。

民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた。

なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが一概にそのように言えるものでもない。
官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった。

日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ、15世紀後半〜16世紀半ばまでの畿内においては永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中20〜30枚までの混入を認める)でしか流通しておらず、そのような宋銭重視政策を特に畿内の荘園領主が行ったため畿内では宋銭使い、東北や九州などの辺境などから次第に粗悪な銭(鐚銭:ビタ銭)数枚で精銭1文とする慣行が成立していくことで撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏、結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。

やがて1560年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと中国からの銭の流入が途絶えたことにより銭不足に陥り、畿内では1560年代に貨幣経済から米経済、1570年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていたビタ銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)4枚=永楽銭1文という慣行が成立していった。

江戸時代に入ると江戸幕府が慶長11年(1606年)に独自の銅銭慶長通宝を鋳造して2年後には永楽銭の流通禁止令がだされ、この段階では慶長通宝の流通も充分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが、元和偃武後の寛永13年(1636年)には寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降、全国的に流通し始めると永楽銭は次第に駆逐されていった。

永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。
特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。




出典: 「永楽通宝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




江戸時代やそれ以前に、中国のお金が日常的に使われていたなんて、ちょっと信じられませんわァ~。。。



そんなことはありませんよ。。。 現在だって、政情不安定な中南米の国へ行けば、地元のお金よりはドルや円で支払いした方が喜ばれますよ。。。



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 (すぐ下のページへ続く)





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