狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「『普通がいい』という病」を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて「普通」と認め合っているに過ぎない世間の人達

2014-06-29 16:10:17 | 世間・空気
 総タイトル:【「『普通がいい』という病」を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて「普通」と認め合っているに過ぎない世間の人達】

 世間にとっての普通や常識は、とかく自分にとっては不自然なもので普通では無い、自分には合わない事が多いです。特に私の場合は周囲の人達の様に世間にどっぷりと浸かっておらず世間に属していないので、その様に強く感じています。
 自分を失くしてしまってロボットや奴隷の様に日々、大きな会社や組織の中で働きながら、プライベートで街中を歩きながら、周りと違っていない様にしないといけないと努めたり、常識・しきたり・定めに縛られ、周囲の顔色や反応を気にする神経症的症状を有し、ストレスは溜まり、抑うつ状態に陥っている人達が多いと思います。
 私の場合は、世間の言う「普通」や「常識」は決して正しい訳では無く、この欲望・偽善・矛盾・下心の渦巻く理想郷では無い現代社会・世間においては、却って普通と認められていない事や「非常識」の方が正しい事が多い様に思っています。世論は偽情報ばかりを垂れ流すマスコミによって形成されているに過ぎず、世間一般で普通に言われている様な事は間違いだらけで真実は別に隠されていると思っています。
 私はその様な考えを持っていますので、勿論、世間を基準にした場合には其の基準からは大きく外れて普通ではないものと思います。しかし、私はその様な世間には基準を置いてはいません。世間の言う事は全く当てにはしていません。
 絶対的な規範・基準を持っていない世間の人達が一応基準にしているものは、周囲の顔色や反応です。世間の人達はその様にお互いの顔色や反応を確かめ合いながら、皆で行動すれば怖くないと言う振る舞いをして、其の行為が正しいか否かは全く考慮していません。自分に思考・考えの無いロボットや奴隷の様な人達がお互いを見て普通であると認め合っているに過ぎないのです。
 「『普通がいい』という病」(著者:泉谷閑示氏、出版社:講談社、出版日:2006/10/20)
 本書を読みました。初版発行当時に読んで以来の再読です。
 著者は「私は別にクリスチャンではありませんが」と言っていますが、私が本書読んで感じた事は、非常に聖書的な考えに近いものと思いました。著者の言葉を基に、私の聖書や神を関連させた解釈を以下に記します。
 人の発達・成長の段階として、著者は「0人称」→「1人称」→「超越的0人称」と次元を区別して述べています。
最初に「0人称」があり、自分に主体が無く自分の考えを持たず自分で判断出来ない未熟な状態。従順で奴隷的。暗闇・欲望への囚われ。これは抑うつ、エネルギーの喪失にも繋がります。世間の常識・一般常識、風評、評判、空気を読み、それら人に従います。世間・多数派、組織、・団体。自分の虚無性、無自覚、不自然、麻痺、他人の判断、安定志向、機械的生活。世間のレール、他人本位、「他信」。他人の欲望、頭由来。他人の承認、世間が基準。世間の客観。
 次のステップとして「1人称」があり、自分に主体性を持ち、思想・考え・主張を持つ。自分が存在。自由・人権の獲得、反抗・抵抗。怒りや反骨精神による生きる原動力・エネルギーを持ちます。個々の専門性・個別性。自分の考え、自己実現、自己本位、「自信」。自分の欲望、頭由来。自分の承認、自分が基準。自分の主観。個人、独立、自立。自覚、自然、敏感。
 そして最もレベルの高いステップが「超越的0人称」であり、神に委ねて無我となる、最も成熟した状態。自分の意志をも捨てる。真の強さ、泰然自若、暗闇からの解放が得られます。神に従い神の普遍性が得られます。神の考え、神実現、神本位、「神信」。神の愛、心由来。神の承認、神が基準。神の客観。神を自分の「主」とする。無限の力、永遠の命、無限の開放。
 また「本当の自分の変遷プロセス」(成熟過程)を述べています。此の世に生まれてから以降、社会性を身に付けながら、他人本位となりながら、「徐々に偽りの自分に侵食されてい」き、社会・世間の偽善や矛盾に適応し迎合し媚びへつらって成功・出世し、世渡り上手となって「本当の自分」が失われます。そしてこの時、社会・世間の物事に偽善や矛盾が含まれている事に気付いていません。その後、何かの出来事に遭遇するきっかけを得たり黙想する事によってそれらの事や真実に気付いて本当の自分が復活し始めて怒りが生じる様になります。そして次に、信仰・祈り・黙想・沈思黙考して「悔い改め」する事によって外から付着した汚れや自分の罪の汚れを落として心が綺麗になってリラックスした状態となり、本当の自分に「純化」されます。欲望・偽善・矛盾が渦巻き理想郷とは程遠い社会・世間の現実とは正反対に、欲望の死、欲望からの解放・自由が得られて理想家となる純粋な自分となります。そしてその後に、リラックスした純粋な自分が理想郷では無い外界(社会・世間)に対する「適応のためのアダプターを身にまとう」という処世術を身につける様に成熟します。
 その様に純粋な自分となって心がリラックスして、且つ理想郷で無い外側の社会・世間から自分を守るアダプター・処世術が身に付いて成熟すると「敏感で太い」状態、気付いても取捨選択して影響を受けない泰然不動の自分となります。そしてそのリラックスした自分とアダプターと言う殻の間に「集中力」を持つ事が大事だと言います。
 また或いは純化して純粋な自分になる上において、人里離れた山奥の仙人・隠遁生活を送る中で、世事・世俗を逃れて黙想・瞑想して悟りや諦めの諦観の念を抱き、自分を「空」・「無」にして自然と一体化し、あるがままの自然な境地に至る成熟も有ります。
 本書に、「聖母マリアは、イエスを神の授かりものとして身ごもり、育てたのであって、決して自分の子どもとは思わなかっただろうと想像」と在ります。
 人間であるマリアは自分の能力でイエス・キリストを産んだ訳では無く、神の全能の力によって、神がマリアを使って、この世にイエス・キリストを遣わされた、処女懐胎の歴史的事実です。
 マリアがイエス・キリストを産みたいと望んでいた訳では無く、神が神御自身の計画をマリアに押し付けて、マリアはそれを運命として素直に受け入れた訳です。
 「現実」とされる俗世(この世)における名誉や地位等が、実際は中身の無い空想的なものなのですが、世間の人々の信奉する処によって、この世においてはそれら空虚(空想・ファンタジー)が重視される「現実」。
 本書に旧約聖書・創世記のアダムとイブの「『二元論の獲得』にこそ、人間の『原罪』を見るべきではないか」と在ります。神こそが善と悪を定める唯一の方で、人が自力では無く神によって生かされている事を知る為です。
 「拘り(こだわり)」は自分(人間)の「頭」由来のものであり、理性・二元論・浅い知恵。反対に神に委ねる事は「心」由来のものであり、自分(人間)の意志(=頭由来)に依らないもので、深い知恵。神に委ねる事で自分の拘りの拘束から解放されて、「心」が自由になります。
 「理性の限界」について、「科学」は人間由来で有限・限界が有りますが、反対に「偶然」・「自然」・「超科学」は神由来のもので無限です。
 「頭」は知識、真偽の二元論、偽善、罪、謀略、不自然、小さな理性、浅い感情「偽の心」であり、反対に「心」は神由来の深い感情、純粋、無罪、「大いなる理性」、「内なる自然」。
 本書に「『心』=『身体』とは、自分を形作ってくれてはいるが、自分のものではない」とし、「期限付きで『自然』からレンタルされているだけ」と在ります。この「自然」とは唯一神である創造主の事を指し、万物、中でも特に人の命は創造主の持ち物であり、期限を有するこの世において人は神からその命を託されているという事を意味しています。「自然の原理」は神の操作によるものです。
 本書に「捻じ曲げられる人間~コントロールという病」と在ります。創造主によって造られ与えられた元々の自然な状態を、科学や生命の操作等により人間の都合によって変えてしまっている事が挙げられます。
 また本書に、「深い感情を信じるということは、『心』を信じて生きることであり、われわれ人間を突き動かしている深い流れ、すなわち『自然』や『運命』を信じるということ」、「私たち人間のちっぽけな理性では測り知れないこの深い流れに身をゆだねて生きていくことが、『運命』に身を開いて生きること」と在ります。ここで言う「自然」や「運命」、「深い流れ」は神由来のものであり、父と子(イエス・キリスト)と聖霊の三位一体の唯一神への信仰を有してその聖霊の宿る「心」を信じると言う事、前述の「超越的0人称」として神に委ねて生きる事を述べています。
 「孤独」と「孤立」について。「alone」は必ずしも寂しい事を含意せず、反対に「lonely」は寂しく恋しく思う孤独と言う違い。心の内に存在する神と共に生きる
 著者の「愛」と「欲望」についての定義。「愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち」、「欲望とは、相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ち」。人の好意や親切が却って余計な干渉で迷惑に感じられる「ありがた迷惑」等は、後者の「欲望」に値するものです。聖霊の存在する心由来のものは、前者の「愛」です。神・キリスト・聖霊が根拠となった「無償の愛」
 「欲望」が無いと、我慢する必要も無くなります。頭の理性や世の定め等によって欲望を抑制する事から、我慢・ストレスが生じます。
 また自分の希望に過ぎない「欲望」から「人の為に善いことをすると書いて」の「偽善」が生まれます。宣伝・アピール等、人に見せる(魅せる)為の表面的なイメージ重視の行為は「偽善」です。
 また神に委ねる事で、自然と自分の欲望が減少して成熟していく事となります。信仰により聖霊の存在する心の内からの働きかけによる神からのアプローチが有り、聖書の御言葉を受け入れる事によります。神による欲望のコントロールによって自分を堅持でき、自分で禁欲的に無理やり抑制するのではなく、この世・社会の定めによるのでもありません。
 「代償行為」、「代理満足」と在ります。水は二種類存在し、世の与える水は幾ら飲んでも満たされず、繰り返し心が渇く為に依存症へと繋がります。しかし一方で神(イエス)の与える水は、心が渇く事が有りません。
 世間の人達の多くが、周囲との関係を良好に保つ為に、嫌われ無い様にg>「自己否定」をしています。自己否定の根拠・理由が無く二次的に「あら探し」を行なって来た事による自己愛の障害と言っています。それはレッテルや先入観、偏見等は思考の癖、手垢の付いた思考であり、それらが前提として最初に頭に存在し、それを基にして「あら探し」しているに過ぎないと言う事です。
 「愛の自給自足」と在ります。孤独に存在出来る故は、世間の考え方や捉え方・此の世的なものを否定し、自己を否定しない自信・自己愛の故であります。世間・他人から受ける事を期待せず、依存せず、内なる神に委ねる事によって「愛の自給自足」が得られます。外側に存在する世間、この世的なもの、評判、顔色(笑顔)、名声、尊敬、勲章等、これらを期待するのは他に依存する間違ったことです。内なる聖霊(神、キリスト)を覆い隠してしまう世間的・此の世的なもの・欲望を取り除く事が必要です。「愛という内なる太陽」とはその聖霊の事であり、「それを遮らず、曇らせない事が大切」と言っています。
 「絶望」について。自分の「欲望」から自分勝手に立てた「目標」を達成できず叶えられない場合に「絶望」となります。しかし、元々が神が自分に対して望んでいたものは別の方向に存在していた訳で、自分の希望・目標・欲望が叶う時を幾ら待っていてもその時が訪れる事は無く「絶望」となります。神の自分に対して立てている計画・期待・運命は別の所に存在します。運命を悟り、自分の希望・期待では無く神の計画・期待に応え従う事が必要です。神に委ね、神の御心に適う様にして、此の世的なもの・欲望を満たすものからの束縛から解放されて心が自由になり、「絶望」とは無縁となり、「希望」が得られます。
 欲望を経験を積み「果たし切る」事によって、自然と、我慢せずとも、禁欲と気張らなくとも、無欲(=真の愛)になる事が出来ると言う意味合いの事を言っています。様々な経験を積んで泰然不動(泰然自若)の精神となります。信仰心の有る心と成熟した判断力・捉え方によって、様々な情報(雑音・誘惑・扇動・そそのかし等)を敏感に捕え気付いても、自分で取捨選択して情報処理し、影響されず、平常心を持って泰然としていられます。
 また欲望の経験の後の「悔い改め」によって、神に身を避け守られる、神への信仰心の有る「真の強さ」を持つ「純粋さ」が得られます。
 「体験」と「経験」の違いについて述べています。「体験」止まりの場合は過去のもので「死んでいるもの」、「苦労が勲章」となってしまいます。その体験の深化により、未来に向けて「苦労が身になる」「経験」、「生きているもの」となります。その経験の深化によって「普遍性」が得られて応用が効く様になり、本当の「共感」をする事が出来る様になると言っています。

 
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)価格:¥ 799(税込)発売日:2006-10-21




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