現在、イラン国内には中東地域では最大となる2万人のユダヤ人が存在します。そして、そのユダヤ人達はイラン国内で差別を受ける事も無く、ユダヤ教を持ったまま平和に暮らしています。又、現在のイスラエル建国(1948年)前までも、ユダヤ人達(パレスチナ人、スファラディー・ユダヤ人)はアラブ人達の中で平和の内に暮らしていました。それが、1917年のバルフォア宣言によるシオニズム政策とそのイスラエル建国によって、アラブ人達にとって馴染みの無い顔立ちの白人系ユダヤ人(アシュケナジー・ユダヤ人)が多く移住して来る様になり、現在までの難解な問題が生まれました。
北のイスラエル王国がB.C.721年にアッシリア帝国に滅ぼされ、「失われた十支族」となって世界各地に散らされました。B.C.612年にアッシリアが新バビロニア王国に滅ぼされると、残る二支族もB.C.597年に第一回目の「バビロン捕囚」、B.C.586年にバビロニアによって南のユダ王国が滅ぼされて第二回目の捕囚となったり、貧しい農家等の人達はそのままユダ(パレスチナ)の地に残りました。その後B.C.539年にアケメネス朝ペルシヤによってバビロニアが滅ぼされると、翌B.C.538年に第一回目のユダへの帰還が有りました。しかし、捕囚となっていたユダヤ人達の内の2~3割のみが帰還し、残りの7~8割のユダヤ人達はそのままバビロニア(ぺルシヤ、イラン)に残りました。又、此の時のユダへの帰還はユダヤ人の自由意思によるもので、捕囚されていた地に残りたい者はそのまま残りました。その後B.C.515年にエルサレムの町の再建と城壁の修復(第二神殿の完成)、B.C.458年に第二回目の集団帰還が有りましたが、同様にそのまま帰還せずに残るユダヤ人達が多くいました。
ぺルシヤの王クロス(キュロス二世、在位:B.C..550~B.C.529年)はユダヤ人達に寛大・寛容で、ユダヤ人のユダへの帰還とエルサレム神殿の再建を命令し、それを保護しました。又、残りたい者には残らせる代わりに、帰還する者達への援助を命令しました。その事の以下の記述が在ります。
旧約聖書・エズラ記1章1~8節「ぺルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はぺルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ぺルシヤの王クロスは言う。「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。」』そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。・・・クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。すなわち、ぺルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。」。シェシュバツァルはゼルバベルの事です。
又、後に神殿の再建が中止させられた時に、ダリヨス王(ダレイオス一世、在位:B.C.522~B.C.486年)が発見されたクロス王の命令文書を基に、神殿再建の再開命令を下した事が以下に在ります。
同6章1~5節「それで、ダリヨス王は命令を下し、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディア州の城の中のアフメタで、一つの巻き物が発見された。その中に次のように書かれていた。『記録。クロス王の第一年に、クロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めよ。・・・その費用は王家から支払う。また、ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取って、バビロンに運んで来た神の宮の金、銀の器具は返し、エルサレムの神殿に運び、一つ一つもとの所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。』」。
イスラム教の開祖ムハンマドは、A.D.610年頃に大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、アッラーフ(唯一神)の啓示を受けたとされます。その啓示は、後にクルアーン(コーラン、イスラム教の聖典)にまとめられました。大天使ガブリエルは、聖マリアにイエス・キリストの受胎告知をする為に降臨されました。又、ムハンマドはイエス・キリストを使徒であり預言者であるとしており、コーランにも新約聖書に由来するイエス様の物語が記されています。又、キリストを愛することも認めています。イエス・キリストはイスラム教ではイーサーと呼ばれ、イスラエルの子らを新しい啓示インジール(福音、福音書、新約聖書)の基に導く為に送られた預言者と位置付けています。ムスリム(イスラム教徒)はマルヤム(聖マリヤ)によるイーサー(イエス・キリスト)の処女懐胎を信じています。その様に、イスラム教はイエス・キリストを認めています。
又、ユダヤ人とアラブ人はアブラハムを共通の先祖とし、アブラハムの正妻サラの子イサクの子孫がユダヤ人、アブラハムの側妻ハガルの子イシュマエルの子孫がアラブ人であり、血が繋がっています。
7世紀頃のイスラム教初期においては、キリスト教徒やユダヤ教徒をズィンミー(啓典の民)と呼んで、イスラーム政権下において庇護民とし、ムスリム支配者の統治下に一定の保護を与えました。ジズヤ(人頭税)やハラージュ(土地税)を納めさせる一方で、信仰の自由は以前と同じ様に保護され、同時期のヨーロッパで迫害されていたユダヤ人より格段に良い扱いをしていました。凡そ8~9割が非ムスリムでありました。イスラーム教徒による征服後のイランでは、ユダヤ人は医師、学者、職人等の職について生計を立て、優れた学者達の中には君主に重んじられた人もいました。
因みに、現在のイランのアフマディネジャド大統領はユダヤ人であるとの事です。祖先はバビロン捕囚後の解放後にペルシャに移り住みました。「イネジャド」で終わる姓は、ユダヤ教から改宗した一族を示すらしいです。両親が服の縫製で生計を立て、一家は服職人を意味する「サボージアン」を名乗っていました。イラン革命後の青年期から現在の名を名乗る様になりました。大抵の場合、改宗を経験した人は前に信仰していたものに対し批判的になる様です。
中東地域での紛争やテロ等に関する日本国内での欧米寄りの偏ったマスコミの情報によって、アラブ人達やムスリム(イスラム教徒)の人達が野蛮等と間違ったイメージ・偏見を持つ日本人が多いのではないかと思います。リビアの故カダフィ前大佐やイランのアフマディネジャド大統領、南米ベネズエラのチャベス大統領等の反米・反NATO・反帝国主義・反イルミナティの主張・言い分についての情報を、日本のマスコミは流しません。現在のシリア情勢においても、反政府勢力の背後に欧米・NATOの帝国主義、そしてそれらの背後のイルミナティ・フリーメーソンの意向が働いているのは言うまでも有りません。
北のイスラエル王国がB.C.721年にアッシリア帝国に滅ぼされ、「失われた十支族」となって世界各地に散らされました。B.C.612年にアッシリアが新バビロニア王国に滅ぼされると、残る二支族もB.C.597年に第一回目の「バビロン捕囚」、B.C.586年にバビロニアによって南のユダ王国が滅ぼされて第二回目の捕囚となったり、貧しい農家等の人達はそのままユダ(パレスチナ)の地に残りました。その後B.C.539年にアケメネス朝ペルシヤによってバビロニアが滅ぼされると、翌B.C.538年に第一回目のユダへの帰還が有りました。しかし、捕囚となっていたユダヤ人達の内の2~3割のみが帰還し、残りの7~8割のユダヤ人達はそのままバビロニア(ぺルシヤ、イラン)に残りました。又、此の時のユダへの帰還はユダヤ人の自由意思によるもので、捕囚されていた地に残りたい者はそのまま残りました。その後B.C.515年にエルサレムの町の再建と城壁の修復(第二神殿の完成)、B.C.458年に第二回目の集団帰還が有りましたが、同様にそのまま帰還せずに残るユダヤ人達が多くいました。
ぺルシヤの王クロス(キュロス二世、在位:B.C..550~B.C.529年)はユダヤ人達に寛大・寛容で、ユダヤ人のユダへの帰還とエルサレム神殿の再建を命令し、それを保護しました。又、残りたい者には残らせる代わりに、帰還する者達への援助を命令しました。その事の以下の記述が在ります。
旧約聖書・エズラ記1章1~8節「ぺルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はぺルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ぺルシヤの王クロスは言う。「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。」』そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。・・・クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。すなわち、ぺルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。」。シェシュバツァルはゼルバベルの事です。
又、後に神殿の再建が中止させられた時に、ダリヨス王(ダレイオス一世、在位:B.C.522~B.C.486年)が発見されたクロス王の命令文書を基に、神殿再建の再開命令を下した事が以下に在ります。
同6章1~5節「それで、ダリヨス王は命令を下し、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディア州の城の中のアフメタで、一つの巻き物が発見された。その中に次のように書かれていた。『記録。クロス王の第一年に、クロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めよ。・・・その費用は王家から支払う。また、ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取って、バビロンに運んで来た神の宮の金、銀の器具は返し、エルサレムの神殿に運び、一つ一つもとの所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。』」。
イスラム教の開祖ムハンマドは、A.D.610年頃に大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、アッラーフ(唯一神)の啓示を受けたとされます。その啓示は、後にクルアーン(コーラン、イスラム教の聖典)にまとめられました。大天使ガブリエルは、聖マリアにイエス・キリストの受胎告知をする為に降臨されました。又、ムハンマドはイエス・キリストを使徒であり預言者であるとしており、コーランにも新約聖書に由来するイエス様の物語が記されています。又、キリストを愛することも認めています。イエス・キリストはイスラム教ではイーサーと呼ばれ、イスラエルの子らを新しい啓示インジール(福音、福音書、新約聖書)の基に導く為に送られた預言者と位置付けています。ムスリム(イスラム教徒)はマルヤム(聖マリヤ)によるイーサー(イエス・キリスト)の処女懐胎を信じています。その様に、イスラム教はイエス・キリストを認めています。
又、ユダヤ人とアラブ人はアブラハムを共通の先祖とし、アブラハムの正妻サラの子イサクの子孫がユダヤ人、アブラハムの側妻ハガルの子イシュマエルの子孫がアラブ人であり、血が繋がっています。
7世紀頃のイスラム教初期においては、キリスト教徒やユダヤ教徒をズィンミー(啓典の民)と呼んで、イスラーム政権下において庇護民とし、ムスリム支配者の統治下に一定の保護を与えました。ジズヤ(人頭税)やハラージュ(土地税)を納めさせる一方で、信仰の自由は以前と同じ様に保護され、同時期のヨーロッパで迫害されていたユダヤ人より格段に良い扱いをしていました。凡そ8~9割が非ムスリムでありました。イスラーム教徒による征服後のイランでは、ユダヤ人は医師、学者、職人等の職について生計を立て、優れた学者達の中には君主に重んじられた人もいました。
因みに、現在のイランのアフマディネジャド大統領はユダヤ人であるとの事です。祖先はバビロン捕囚後の解放後にペルシャに移り住みました。「イネジャド」で終わる姓は、ユダヤ教から改宗した一族を示すらしいです。両親が服の縫製で生計を立て、一家は服職人を意味する「サボージアン」を名乗っていました。イラン革命後の青年期から現在の名を名乗る様になりました。大抵の場合、改宗を経験した人は前に信仰していたものに対し批判的になる様です。
中東地域での紛争やテロ等に関する日本国内での欧米寄りの偏ったマスコミの情報によって、アラブ人達やムスリム(イスラム教徒)の人達が野蛮等と間違ったイメージ・偏見を持つ日本人が多いのではないかと思います。リビアの故カダフィ前大佐やイランのアフマディネジャド大統領、南米ベネズエラのチャベス大統領等の反米・反NATO・反帝国主義・反イルミナティの主張・言い分についての情報を、日本のマスコミは流しません。現在のシリア情勢においても、反政府勢力の背後に欧米・NATOの帝国主義、そしてそれらの背後のイルミナティ・フリーメーソンの意向が働いているのは言うまでも有りません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます