くろにゃんこの読書日記

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浦島太郎について考える

2007年06月29日 | 人形劇サークル事情
決定したわけではないけれど、今年の人形劇の新作が浦島太郎になりそうなので、シナリオを書くという前提で、いろいろと資料を漁っていたのですが、やっとひとつの形を成してきたので、ここにまとめてみようかと思います。
最初は一寸法師が有力候補だったので、その関係からおとぎ草子関係に探りをいれました。
そこで出合ったのは、私たちが慣れ親しんでいるむかしばなし、「むっかしむっかしうっらしまは~」という歌にもなっているものとは、まったく違うものでした。
これは一寸法師にしても言えることで、私たちが子供の頃に読んだ絵本などにあるような物語は、実際には明治時代に入ってから成立していて、浦島太郎や桃太郎などの歌も、尋常小学校唱歌でありました。
ず~と昔からこの話だったと思っていたものが実際は違っていて、時代背景によってむかしばなしも少しずつ変化をしてきているというのは、大きな発見でした。
最近の絵本では、さらに変化してきているものもあり、そうなってしまうのも、現代の世相を反映しているということですね。
おとぎ草子もその時代に即して書かれているわけで、もっと以前の物語はどうなのかと調べていく過程で、むかしがたりとうたっている読み聞かせの本などを調べたり、古事記を読んだりしていたわけです。
まず、私たちが知っているむかしばなしというものを整理してみましょう。

浦島太郎は、釣りに出かける。
カメがいじめられているのを発見する。
カメを助ける。
カメがお礼に竜宮城に浦島太郎を連れて行く。
乙姫様に会う。
楽しく3年(?)竜宮城で過ごす。
残してきた両親が心配になって、竜宮城から帰ってくる。
帰る際に決してあけてはいけないという玉手箱をもらう。
帰ってみると以前と様子が違っている。
人に訊ねると、自分が去ってから300年(?)たっていることを知る。
玉手箱を開けてしまう。
すると煙が立ち上り、おじいさんになってしまう。

おとぎ草子との違いはどこにあるかといえば、カメが乙姫様本人であるということ。
太郎はカメを釣り上げますが、
「鶴は千年亀は萬年とて、命久しきものなり」
ここで命を絶ってしまうのはかわいそうだと言って海に返します。
次の日再び海に出ると、一人の若い女性がひとりで小船に乗ってやってきます。
女性が泣いて言うには、
「自分の乗っていた船が難儀してしまい、心ある人が私をこの小船に乗せてくれました。
 どうか私を故郷へ帰らせてください」
気の毒に思った浦島太郎は、彼女と一緒に10日あまり船をこぎ、彼女の故郷へと辿り着きます。
そこは非常に美しく、白銀の築地、黄金の甍、天上の住まいもこれに勝るものではない。
「これは竜宮城と申すところなり」
という彼女と言われるままに契りを結び、あっというまに3年が過ぎてしまいます。

おとぎ草子は、浦島太郎と乙姫様の愛の物語としての色合いが濃い、異婚談であります。
だから~してはいけないというタブーがあるのですね。
2人の愛の結末はといえば、玉手箱を開けることで経過した年数分の歳を取ってしまった浦島太郎は、その後鶴となり蓬莱山へと飛んでいき、後に丹後に浦島の明神となって顕現し、亀も神として同じところに顕れ、夫婦の明神となったと伝えています。
昔の伝承というのは、土地の名称にまつわるものや、神社の縁起に関するものが多く、おとぎ草子の浦島太郎はそういう形式にあてはまるものです。
また、情けは人のためならずという説教くさいところも見受けられます。

具体的に人形劇にすることを考えた場合、おとぎ草子版ではあまりにも私たちが慣れ親しんでいる話とは違ってしまい、だれもが納得するものにはなりません。
逆に、枝葉を取ってしまって、変えてはいけない重要なところを考えてみましょう。

ひとつ、竜宮城という常世に出かけること。
ひとつ、そこで数年過ごしたはずが、実際には非常に長い年月を過ごしていたという経過時間の主観的、客観的な違い。

では、常世とはなんなのか。
古事記では世界は立体的に出来ています。
天つ神の高天原、国つ神の葦原中つ国、死の世界黄泉の国。
葦原中つ国と平行して、海のかなたにあるとされているのが常世の国。
常世の国というのは時間を超越した永遠の世界で、生命の根源世界とされた異郷のこと。
これだけでは、よく分かりませんよね。
「お伽草子」謎解き紀行―伝説に隠されていた、古代史のメッセージでは、浦島太郎と海幸彦山幸彦(火照命:ホデリノミコトと火遠理命:ホヲリノミコト)を比較していたけれども、常世という観点からみると、垂仁天皇の段の「時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」に出てくる多遅摩毛理(タヂマモリ)という人物の方が浦島太郎に近いと思います。

垂仁天皇は、タジマモリに常世の国にある、時を定めずに良い香りを放つ木の実(橘)を持ち帰ってくるよう求めた。
タヂマモリはついに常世について持ち帰ってくるが、そのとき天皇は既に亡く、半分を大后に献り、半分を御稜に供えて、
「常世国のときじくの香の木の実を持ちて参上りて侍う」
と申し上げて泣き叫びながら死んでしまった。

橘は年中通して緑豊かなことから、生命力豊かなめでたい木とされていたようです。
常世は、常に変わらない生命力にあふれた世界であって、
時間も現世とは違う進み方をするところ。
だから常世から戻ってきたものは、ずれた時間を一気に取り戻してしまう。

何となく常世について納得がいくまでになりましたが、
一向に浦島太郎の話を組み立てることが出来ません。
一番の難題は、ラストをどうするかです。
おじいさんとなった太郎をそのままほったらかしでいいものか。
絵本ならそれでもいいけれど、人形劇としてはちょっとインパクトに欠けるし、
そもそもイメージが湧かない。
これで最後と思いながら期待することもなく、
丹後風土記の逸文「筒川の嶋子」にあたってみることにしました。
丹後風土記にある嶋子伝説では、最初っから乙姫(亀比売)は、
嶋子(浦島太郎)を見初めているのです。
で、半ば強引に連れ帰っちゃう。
どちらかといえば、神仙思想が強いですが、ロマンチックな物語になっています。
なんといってもラストの歌がいい。

「常世辺に 雲立ち渡る 水江の 浦嶋の子が 言もち渡る
 常世のある方向に雲が流れている。水江の浦嶋の子の、言葉をもって雲が棚引いている」
それを聞いた神の乙女は
「倭辺に 風吹き上げて 雲離れ 退きをりともよ 我を忘らすな
 大和の方角に向かって風が吹き上げ、その雲と共にあなたと離れて別れてしまっても、
 あなたは私を忘れないでね」
と雲の彼方を飛びながら歌う。

これです、これ。
棚引く雲ですよ。
このイメージが、全てをつなげてくれる鍵です。
やっと、これで腰を落ち着けてシナリオが書けそうです。
とはいえ、「浦島太郎」って決定はしていないんですけどね。




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