Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

指先の記憶。

2007-09-03 | 徒然雑記
 私の仕草の中にもし、過去に出逢った誰かのそれが混じっている場合があるとしたら、それはあの人のもの以外にはあり得ない。
この身に写しとる意志こそなかったが、無意識にその欠片を拾ってしまってもおかしくないくらい、私はその指先ばかりを見ていた。私の記憶の中には、その人の表情や衣服よりも、指先や腕の形の画像がより沢山詰まっていたのだということを今更ながらに知った。
想定の範疇を超えた場所で7年ぶりにばったりと出会ってしまった、それは確かに私の恩師であった。

 大学構内のゴミ廃棄場から美しいフォルムの椅子や古めかしい天秤量りや使い方すら判らない木製円筒状の計算機などを拾ってきては「君の眼にはこれらがゴミに見えるか?これらがゴミに見える人間の神経が僕には信じられない」と大仰に首を振って遺憾の意を示した。

 古い正教のイコンが架かった煙草の煙が充満する彼の研究室は既に本でいっぱいであるのに、それにも増して使途不明の美しいガラクタで浸蝕されていった。地上の論理では恐らく無秩序で無計画なその増殖は、全く別の必然に導かれたエッサイの樹のように、なにかを花開かせていった。
私は彼の言葉を聞きたいからというよりむしろ、どんな形に育つのか判らないその枝葉の広がりの進捗と行方が見たくて、用もないのに頻繁に研究室を訪れた。

 彼は、
 モンブランのボルドー色のボールペンを愛用していた。
 研究室の壁を黄色に染める煙草は、赤いマルボロだった。
 ホワイトボードを指差すときには、殆どきまって中指を用いた。
 紙になにかを殴り書きにするとき、書かれる紙の角度はばらばらであった。

彼の長い指先が動く映像ばかりが、記憶の中になぜだかこんなにも鮮やかだ。
間違いなく気障に見えるその動きは非常に繊細な感性で構築されたことが明らかで、だからこそ私はそれに敬意を払いこそすれ、笑うことは決してできなかったのだ。自分の仕草ひとつにこれほどの注意を払うことが不可能だった学生ふぜいでも、彼の仕草の成り立ちと自らのそれとが同じ土俵に居ないことに、きっと薄々なり気付いていたからであろう。

 彼は、
 栗色ともワイン色ともつかない、「名前を持たない」私の髪色を褒めてくれた。
 爪色が群青色で似合うという理由で、撮影のために蜥蜴の液浸標本を持たされた。
 一方で、課題や授業でいかなる評価をされたかについては全く記憶にない。

どこまでも個人的な美の基準を堂々と振りかざす奔放な研究者は、決して学会から歓迎されていた訳ではないことを知っている。だけれど、彼の嬉々とした我が儘な言葉は学会に安住する教授陣よりも一層研究者らしく私の眼に映った。そうして、私が自分で「美」であると判断し選択した身体表現を、この尖った研究者の感性が等しく「美」であると認識したことに、同じ何かを目指す者として私は非常に安堵し、喜んだのだ。


今日の日に自身が美しいスーツを着ていなかったことを少しだけ悔やんだ。
今日の服装が彼に褒めて貰えるものではないことを、私は知っているからだ。
そうして、彼がそのことに多少なり落胆するかもしれないということも。

別の日に、美しいスーツを着て改めて逢いに行こうと決めた。