「君にはいま、美味しい珈琲が足りないんだね。40分くらい時間をかけて飲むようなやつがね。だから、泣いちゃうんだよ。」
うっかり私は、笑った。
この男はよくわかっている。泣きたいときには泣けばよい、でもなく、泣くな、でもないその悠長な言葉がどれだけ私の張り詰めた心を解いてしまうかを。
家から歩ける範囲にも、タクシーで10分圏内にも、私が心を緩ませる珈琲屋はない。だから、仕事の忙しさにかまけてこのかたずっと、美味しい珈琲にはご無沙汰なままだ。そして最早、それが欲しいということまで忘れかけている。このひと月にわたって部屋に花が飾られることはなく、無駄な本を読んだことはなく、娯楽的なお買い物すらしていない。そうしてやはり、どんな花を飾りたいだとか、どんな服が欲しいだとか思うことはなかった。
それはある意味において心の平安を意味するものであるが、欲求ゲージを常時リセットにするという代償を払って、一緒に不満ゲージをリセットしようとする試みが無意識下で行われているということだ。決して望まれるべき対応ではないが、それに代わる日々の避け方を私は多分まだ知らない。
特にそんな状況下において、ひとりで歩いているときに自分の身体が溶けて思考体だけになってしまうような感覚に襲われるのは私だけではないはずだ。思考だけになった自分がゆらゆらと街の中を漂っているつもりである(なぜかそういう時に限って、人とぶつかることが殆どないのだ)ので、うっかり誰かに呼び止められたり誰かとばっちり目が合ったりすると、ぎょっとするくらいに慌てる。慌ててしまった後で、自分の身体が自分のところに戻ってきて、ああまたか、と嘆息する。
そんな自身の状況を確認したところで私は至極ゆっくりと、しかも少しだけ自虐的に喜びながら慌てて、この季節に自分がどんな花を買う「べき」であったかを思い出そうとしたのだ。
優先的上位にのぼるのは、もっとも好きな花である竜胆、そして秋のはじまりを紅く彩る鶏頭。けれどなぜか最終的に、それらより少しだけ優しい風情のトルコ桔梗が窓辺に飾られた。
トルコ桔梗の白と紫が揺れる姿をみて、今実に飲みたいのが自分の生まれ年よりも古いコロンビアのデミタスであることがようやくわかった。
うっかり私は、笑った。
この男はよくわかっている。泣きたいときには泣けばよい、でもなく、泣くな、でもないその悠長な言葉がどれだけ私の張り詰めた心を解いてしまうかを。
家から歩ける範囲にも、タクシーで10分圏内にも、私が心を緩ませる珈琲屋はない。だから、仕事の忙しさにかまけてこのかたずっと、美味しい珈琲にはご無沙汰なままだ。そして最早、それが欲しいということまで忘れかけている。このひと月にわたって部屋に花が飾られることはなく、無駄な本を読んだことはなく、娯楽的なお買い物すらしていない。そうしてやはり、どんな花を飾りたいだとか、どんな服が欲しいだとか思うことはなかった。
それはある意味において心の平安を意味するものであるが、欲求ゲージを常時リセットにするという代償を払って、一緒に不満ゲージをリセットしようとする試みが無意識下で行われているということだ。決して望まれるべき対応ではないが、それに代わる日々の避け方を私は多分まだ知らない。
特にそんな状況下において、ひとりで歩いているときに自分の身体が溶けて思考体だけになってしまうような感覚に襲われるのは私だけではないはずだ。思考だけになった自分がゆらゆらと街の中を漂っているつもりである(なぜかそういう時に限って、人とぶつかることが殆どないのだ)ので、うっかり誰かに呼び止められたり誰かとばっちり目が合ったりすると、ぎょっとするくらいに慌てる。慌ててしまった後で、自分の身体が自分のところに戻ってきて、ああまたか、と嘆息する。
そんな自身の状況を確認したところで私は至極ゆっくりと、しかも少しだけ自虐的に喜びながら慌てて、この季節に自分がどんな花を買う「べき」であったかを思い出そうとしたのだ。
優先的上位にのぼるのは、もっとも好きな花である竜胆、そして秋のはじまりを紅く彩る鶏頭。けれどなぜか最終的に、それらより少しだけ優しい風情のトルコ桔梗が窓辺に飾られた。
トルコ桔梗の白と紫が揺れる姿をみて、今実に飲みたいのが自分の生まれ年よりも古いコロンビアのデミタスであることがようやくわかった。
旬というものを忘れさせる能力があるからだ。
幼少の頃、春以外のシーズンにおける
ショートケーキの苺について
どのように保存をしているか悩んだことがある。
でも、そういうことって、悩んでいいんだと思う
・・と、今にしてそう思う。
数日前に愛読者に復帰しましたよ。
自分が意識体(思考体よりもこっちの方がわたしにはしっくりくるみたい)だけになってひょいひょい歩いていることはしょっちゅうです。やはり障害物だけはオートマチックに避けられるのです。
わたしの場合それは最初、個人的な関心事であれ仕事であれ、ある行為への没頭、集中からはじまるので、入り口あたりでのその感覚は痛快であったりするのだけれど、嵩じるにつれて意識と身体がオフラインになっていき、これはとてもいやな感じ。
せいぜい頭痛や胃痛の痛みによってアクセス出来るくらいで、これはさらにさらにいやな感じ。
美味しいものや好きな香り、エロティックな手触りなどは、意識と身体を本来の場所に戻してくれるような気がするよね。
熱い珈琲が美味しそうな季節になりましたね。
珈琲が飲めない私は今朝は(今朝も)お茶です。市販のハーブティーに、庭で育てているハーブの葉っぱや花の中から選んだ一品をはらりと浮かべて。
タンブラーに入れたコーヒーは香りに欠け、
どんどん熱さが奪われていきます。
嗚呼。今、ガヨマウンテンが飲みたいです^-^;
自分がいま何を欲しがるべきか、を失わせる能力がビニルハウスには確かにあります。
コメントを読んで、季節にまつわるものではないけれど、インターネット通販にもそれと同様のチカラがあると思いました。餅は餅屋・・ではないけれど、その感じが欠落しているように思えることがひとつ。もうひとつは、「選択」「購入」に係る視覚、匂い、触覚というモノとの交流(ひいては専門家であるところの人との交流)の欠落。
季節の何かでも、そうでなくても、自分が「欲しい」と願うものと自分との間には、何らかの会話があってしかるべきで、それを失いかける自身も、それがデフォルトとなっている環境も、やっぱり私には「ちょっと怖い」のです。
>さゆり さま
お帰りなさい。お仕事等お忙しかったですか?
こちらも更新頻度がまちまちになっておりますが、お暇があればまた折々いらして下さい。
>>せいぜい頭痛や胃痛の痛みによってアクセス出来るくらいで
よくわかります。これ。
私の場合にはむしろ、これがあることによって「あぁ、まだ自分が居るね」という確認作業を行うことができるという面において、そんなに嫌いな感覚ではなかった気がします。苦痛じゃなくなっている時点で既に何かが麻痺しているような気もするけれど(笑
受容体としての自分を、常に失いたくないものです。
自分の身体感覚を透明に近づけるのは、こういった不可抗力の無意識下ではいとも簡単に行われてしまうものですが、意識的にやろうとすると難しいものですよね。それこそ、禅とか呼吸法とかの練習が沢山必要で。
呼吸法は若干なり会得しているつもりでいるのだけれど、それでも歩いていたりなど、動きながらやるのは難しい。集中力がある一点(か、その周辺)に集約されることによって、他の諸々への注意が極端に減ずるからでしょう。まだまだですな。
>無学 さま
ときによって、名前の後に☆がついたりつかなかったりするのですね(笑
東京も、今夜未明あたりに上陸かと云われていますので、本日夜の外出はくれぐれもお気をつけくださいね。
週末に気に入りの珈琲が飲めるのだろうか・・スケジューリングが不安な本日です。
でも沢山のことを先送りにしているので、これからのことを考えると頭痛い(><)
人間関係も絡んだ仕事は放置しておくとひとりでに解決してしていたり、仕事そのものが消滅していたりするので先送りも戦略なのですが(怠惰の言い訳ではない・笑)、そうならなかった場合には必然的に期限間際の修羅場を迎えることになります。
でも先送りできる余裕があるというのは、やっぱりたいして忙しくないんだと思います。
先送りの技術は私も持っています。
ちまちまと少しずつのものを先送りしている現状です。
しかし、その分休んだり遊んだりできているかと云われればそうでもなく、所謂先送りの中でもひどく消極的なもので、トコロテン的に押し出されてしまって結果的に先送られてしまった、というほうが正しいかもしれません。少なくとも、blogの更新やコメントのお返しが滞るほどには忙しいようです。
困ったものだ。
>マ‐シャルア‐ティスト さま
自然呼吸のように見せかける意図的な呼吸ができたら、最高だね。
美味しい珈琲は、狙っていった銀座1丁目付近の店が満席だったため、次点な感じの4丁目で補給してきました。
他の色々と同じく、珈琲も場数です。
判らないなりに美味しいものをいっぱい経験すれば、いやでも判ってしまって、スタバのそれで満足することは最早あり得なくなるのです。