Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

月を忘れる。

2007-09-26 | 春夏秋冬
 「お前はほんとうに愚痴を云わないやつだな。」
煙草を吸う私の横顔に向かって、同僚が云った。
あなたの愚痴を先に聞かされちゃ、わたしは誰に云えばいいっていうのよ、という言葉は心の中に留めて、「愚痴を云うタイミングをいつも逃しちゃうだけよ。」と煙を吐き出しながら笑った。
結局のところ、さぁ愚痴を云ってごらん、と誰かが両手を広げて待機してくれていたとして、わたしがそれに口を開くかといえば怪しいものだ。殆どの愚痴には生産性がないし、なにより政治の邪魔になる。わたしがどこかで不用意に発した言葉が巡り巡っていつかわたしの足を掬うかもしれないなんて、まっぴらだ。

 夜遅く帰宅すると、部屋は暖かい食事の匂いで満ちていた。
「お疲れさま。今日の月は見たかい。」と声が掛かった。
「見てないわ。空に月があることすら忘れかけてる。」
「今日は中秋の名月だから、お団子を買ってきたよ。薄はお掃除が大変そうだからやめたけど。」
 ひとときわたしは黙った。

季節の移り変わりを、ただ衣服の変化や風呂の適正温度を通じてしか受容できないことは非常に淋しいことだ。しかし、日々を生きるのではなく日々をやり過ごすやり方でしか時間を通過できなくなると、わたしの視覚には自動的に蓋がなされる。できるだけさりげなく今を通過してゆくためには、心を揺さぶらせてわたしの歩みを留める様々な誘惑者の存在が疎ましい。その誘惑に惑いつつも諦める我慢が厭わしく、その誘惑に万一心を乱されなかった場合の落胆が恐ろしい。だからこそ、「今だけだから」という言い訳を添えて、わたしは視覚に蓋をする。

月のかたちをした黄色い団子と、うさぎのかたちをした白い団子は、理想的に可愛らしくわたしの目に映った。
そして、今日の月を見ることができなくて非常に残念だ、と思えたことに僅かな満足を感じた。

 さぁ眠ろうと床についたとき、カーテンが僅かに開かれた。
「ほら、月がでているよ。」
眼鏡をとったわたしの心許ない目にも、高いマンションが並ぶ合間の僅かな空に、ちょうど収まるように月が座っているのが見えた。暫くそれを見詰めたのち、わたしはさっとカーテンを閉じた。部屋は再び暗くなった。
常に月が空にあることを忘れずにいることは難しい。けれど、忘れている間にもやはり月はそこにきちんと居るのだ。

 閉じた目の中にぼんやりと月が残っている。