Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

美味しい珈琲が足りない。

2007-09-04 | 徒然雑記
「君にはいま、美味しい珈琲が足りないんだね。40分くらい時間をかけて飲むようなやつがね。だから、泣いちゃうんだよ。」

うっかり私は、笑った。
この男はよくわかっている。泣きたいときには泣けばよい、でもなく、泣くな、でもないその悠長な言葉がどれだけ私の張り詰めた心を解いてしまうかを。

 家から歩ける範囲にも、タクシーで10分圏内にも、私が心を緩ませる珈琲屋はない。だから、仕事の忙しさにかまけてこのかたずっと、美味しい珈琲にはご無沙汰なままだ。そして最早、それが欲しいということまで忘れかけている。このひと月にわたって部屋に花が飾られることはなく、無駄な本を読んだことはなく、娯楽的なお買い物すらしていない。そうしてやはり、どんな花を飾りたいだとか、どんな服が欲しいだとか思うことはなかった。

 それはある意味において心の平安を意味するものであるが、欲求ゲージを常時リセットにするという代償を払って、一緒に不満ゲージをリセットしようとする試みが無意識下で行われているということだ。決して望まれるべき対応ではないが、それに代わる日々の避け方を私は多分まだ知らない。

 特にそんな状況下において、ひとりで歩いているときに自分の身体が溶けて思考体だけになってしまうような感覚に襲われるのは私だけではないはずだ。思考だけになった自分がゆらゆらと街の中を漂っているつもりである(なぜかそういう時に限って、人とぶつかることが殆どないのだ)ので、うっかり誰かに呼び止められたり誰かとばっちり目が合ったりすると、ぎょっとするくらいに慌てる。慌ててしまった後で、自分の身体が自分のところに戻ってきて、ああまたか、と嘆息する。


 そんな自身の状況を確認したところで私は至極ゆっくりと、しかも少しだけ自虐的に喜びながら慌てて、この季節に自分がどんな花を買う「べき」であったかを思い出そうとしたのだ。

優先的上位にのぼるのは、もっとも好きな花である竜胆、そして秋のはじまりを紅く彩る鶏頭。けれどなぜか最終的に、それらより少しだけ優しい風情のトルコ桔梗が窓辺に飾られた。
トルコ桔梗の白と紫が揺れる姿をみて、今実に飲みたいのが自分の生まれ年よりも古いコロンビアのデミタスであることがようやくわかった。