Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

クローバーの10。

2007-09-11 | 徒然雑記
「あのう、すみません。今朝このあたりにクローバーの10を落としたのですけれど、届いていませんか?」
「えっと・・・お待ちくださいね。あぁ、残念ですがダイヤの6とキングが届いてはいるのですが、クローバーは今日はひとつもありませんね・・」
「そうですか。もし今後届け出があったら、ここにお電話くださいね。」
「かしこまりました。」

 そんなやりとりを想像して、頭痛と吐き気にまみれた通勤の途でふふふとひとり笑った。
白いガードレールの脇に一枚だけ落ちていたクローバーの10は、灰色のくせして裏のほうから輝きが透けて見えるアルミのような変哲な空の日には丁度いい落し物だ、と思った。

 自分がしてしまうとひどく気が滅入るけれど、落し物というものは地下鉄の構内やとくに行き着けでもないどこかの喫茶店でではなくて、白日の空の下にあるからこそ滑稽だ。そして、それが原っぱや公園ではなくて、アスファルトで固められた道路の上であれば言うことない。

 室内や原っぱや公園では、行動の自由が比較的確保される。だから、そこで何らかの行動を起こした際に何らかの一部を落としてしまったとしても不思議はない。それよりも、そこは「人が座る」ことをある程度予期された場所であるから、人ではないにせよ物質がちょこんとひとりで座っていたとしても、なかなかそれを咎めるべき論理を持たない。


 塵を掃かれ、歩道や植え込みを整備され、何かから何かを護る柵が設置された道路は、絶え間ないそのメンテナンスのゆえに、人の自由が介入しにくい統制のとれた空間だ。その統制の隙間を縫って置かれたクローバーの10は、してやったりの顔をしているように見えた。クローバーの10が一枚欠けた残りの集団は統制機能としての名を失い、てんでばらばらのシートの集積となる。仮にこの1枚が発見されて元の位置に収まったとしても、個人的な旅の証拠がその身に刻まれたあとでは、もとあった統制をふたたび取り戻すことはできない。

 私はそれができるだけ長い時間そこに留まっていてくれることを望んだ。それは、子供が道路に描いた奔放な落書きを眺めるような気分と少し似ていた。


「すみません。昨夜だと思うんですけど・・この交差点近くで毬藻を落としたと思うのですが、届いてませんか?」
「マリモ・・・今日はないねえ。ダルマなら昨日届いたけど、赤くちゃ駄目だもんねぇ・・」