Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

トリ(鶏)といえば若冲。

2004-12-09 | 芸術礼賛
 そろそろ、暮れも押し迫ってきましたね。(まだか?)

この時期、年末ならではの独特の慌しさが個人的には苦手だ。お歳暮、賀状の準備をしている間に世間はクリスマスだって騒ぎたて、とはいえ騒ぎに取り残されるのも癪だから、暇を見つけて銀座のイルミネーションやツリーを眺め遣りつつお散歩をしたりもせねばならない。年末のアメ横は、一度もみくちゃにされてぼろ雑巾のようになった経験があるので、別にもう行かなくても宜しい。あと、年末年始は銀行が閉まるから、少しばかりの手持ち現金の準備をしないとえらいことになるし。
そんなこんなで、文字通り駆け足で年が暮れてゆく。

今年は少しばかり余裕を持って、賀状の準備をしている。来年はとり年らしい。トリ、特にニワトリと云えば、伊藤若冲である。ニワトリの下絵を描くにあたって色々なものを参照してはみたが、目的を忘れて若冲の絵図に見とれる始末。お陰で下絵描きは昨夜、深夜まで及んだ。

 色絵、墨絵ともに、数多くの鶏を若冲はまるで実験のように描いている。
色絵のものは色鮮やかでとさかはすっくと威厳を持って立ち、背中の羽や尾羽を少し逆立ててさえいるさまは、まるで観る者を威嚇せんばかりの筆勢。ここで食用の鶏を想像してはいけない。観賞用、もしくは闘鶏用のそれが、絵から滲み出る存在感と生命力には相応しい。間違っても、ちょいと捕まってくいっと首を捻られてしまうような輩とは同じでないのだ。

 墨絵のものは、打って変わって、触ればふわふわとした羽毛がこちらの指先を温かく包んでくれそうなまぁるい柔らかさに満ち満ちている。デッサンを試すように様々なアングルで、六曲の屏風それぞれの板にちょこんと鶏が「居る」。愛想のない墨を、高度な技術を用いてあでやかに変貌させる術に若冲は長けていた。ぼかしやたらし込みの技法によって柔らかい羽毛が重なる部分を輪郭線を用いずに表現する。そして最も長く硬く、男性的な生命感を体現する尾羽には、水を殆ど含まない濃墨で筆先の勢いやかすれを残しながら一息で描きあげている。一方、筆をまったく置かずに真っ白な生地を生かすのはほわほわの胸の羽。早春の淡い光を受け、影さえささない白い羽毛が密集しているさまが見れ取れるわけだ。

 若冲の天才ぶりはデッサン力と技法の習熟だけではない。
百犬図」や「動植彩絵」に見られるように、美的というよりは実験的、図鑑的要素を多く含む、あくまで個人的・主観的な何らかの観念に拠って描かれており、その彼ならではの観念が容赦なく我々の胸に突き刺さるのである。折々に絵画から発せられる、「これ、凄いでしょう」「これ、綺麗でしょう?」といった媚や計算がない彼の個人的欲求と満足が、狂的な微笑みが至るところから垣間見えるのだ。
そして、私はそれだからこそ彼がどうしようもなく好きだ。

 私の描いた鶏は、どことなく痩せていて神経質そうな、ちょっとだけ貧乏臭い感じに仕上がった。
若冲の塗り絵なんかも販売されているらしい。絵がどのように描かれているのかを知るには画期的な手段である。500円でお釣りがくるので、やってみると新たな発見があるかもしれない。



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3 コメント

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実は (nagaikin)
2004-12-13 05:02:50
来年は酉男もとい年男なんですよ。



そうですね。

>食用の鶏を想像してはいけない

全く食えそうな気がしませんがな、実際。ある意味、ほんとに同じ鶏?みたいな。

どことなくおどろおどろしく、猛々しい。それでいて、なぜか愛くるしくもある。

佐々木倫子の『動物のお医者さん』に出てくるヒヨちゃん(→http://www.tv-asahi.co.jp/cyobi/cast/body_animal.html)を思い出しました。ちなみに私はドラマの方は見ておりません。
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ヒヨちゃぁ~ん (マユ)
2004-12-15 16:25:41
懐かしすぎます。

でも、実写だと判りませんね、あの猛々しさ?が。

因みに、二階堂という友人がいます。

漫画の中の二階堂ほどではありませんが、いつも薔薇をはじめとする花柄のシャツを着ています。



そいえば、東京ステーションギャラリーで国芳とか蕭白やってるみたいですね。寄ろうかな。
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あいかわらず (nagaikin)
2004-12-17 01:56:12
あそこ、たまにおもしろそうな展覧会しますね。まじめそうな雰囲気に合わず。行きたいかも。



花柄!!一枚も持ってないです・・・
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