Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

書を描きたい。

2004-12-27 | 徒然雑記
 この季節になるといつも思う。
筆と墨を使って、上手に字が書けたらと。私は、毛筆がへたくそである。

平安の頃、文字のことを「手」と呼び、顔を見ることの叶わない相手との文の遣り取りから相手の心ばえや教養、性格を読み取るものとして大層重要視されていた。書は、その人柄を一身に背負ったかくも大事なものとして重要視されていたわけだ。
また、「葦手書き」という、字を変形させて絵と合体させる美しい文字アートもあった。

中学生の頃、私は字がへたくそだった。兎に角思考のスピードに追いつけるくらいに速く書くことを優先していて、読める程度のものではあるけれど、丸字という訳でもなくひたすら乱雑な字であった。
同じクラスに、いまひとつ仲良くなれない女の子がいた。別に美人でもなく、怜悧でもなく、思い遣りがあって優しいのでもなく、面白いことを云うのでもなく、そういう人だった。しかし、彼女の書く字は特に美しく、品がよかった。
私は彼女より賢かったし、彼女よりは自分のほうが多少なりと可愛いし、優しいだろうと思っていた。多分それは事実であったと今でも思う。だけれど、彼女の字の美しさだけで、私は「負けた」と思ったのだった。

それから、字の特訓が始まった。
小学生の頃に使った「漢字書き取り帳」を買ってきて、教科書にあるようにはねる、止める、払うを丁寧に、くっつけるところはきちんとくっつけて、決して字は崩さずに、思いつく字を順番に書いていた。授業のノートをとる速度は格段に落ち、その代わりに字は大きく、追いつく限り丁寧に書いた。それを高校最初の1年間続けた。
2年目になってから、ちょっとずつ字を速く書くようにしてみた。急げば、字は崩れる。不思議なことに、特訓前の自分の崩し字とは全く性格の異なる崩し字が生まれてきた。おまけに、苦手だった縦書きのほうが上手になり、横書きのほうがへたくそに見えるようにもなった。

美しく崩された字からは、教科書やPCのフォントでは決して生まれないリズムが生まれる。固定されない字の大きさのバランスや改行によって。また字のひとつひとつからは、性格が滲み出る。

コドモの頃の私は、その字が示すようにせっかちで、乱雑だったのだと思う。中学生になって美術に触れ、美術の道を目指したいと願うようになったからこそ、字の持つ機微や繊細さに気付いたのだと思う。そして美や文学を至上の心の餌として喰ってゆくようになってから、私の字はようやく一変した。決して模範的に美しい字ではないけれど、私の神経質さと自分勝手なリズムや心の起伏、薄暗い湿気のようなものをうまいこと反映した字になってしまったものだとは思う。

ペンや鉛筆では表現し得ないかすれや墨の衝動的な濃淡を表現することがもしできるのならば、照れくさくて、また儀礼的にうまく回避した心の声をそこに表現することも可能なのかもしれないと思うのだ。文字で表現できない更なる何かを。
だからいつか、筆と墨で文を描けるようになりたいのだ。

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