Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

空中遊園。

2007-03-03 | 異国憧憬
 ステンレスやアルミのような煌きをもつ熱帯魚に迎えられて、屋上へと昇った。
扉を抜けると、苔に覆われて深い緑色になった大小さまざまな水槽があった。恐らく真っ暗であろう水槽の中からまるで光を発するように、これまた色とりどりの金魚がゆらゆらと漂っていた。金魚鉢のように、その中に受け入れられた光によって四方から眩しく照らされた金魚よりもなお一層、緑によどんだ暗い空間の中を縦横に揺らめく彼らは無神経なほどに可愛らしく見えた。 

 じっと見ていると、白や橙や朱や赤の破片がぱらぱらと分離して、それでもなお金魚であったときの不安な動きのまま、ゆらゆらと緑の空間を漂っていた。金魚で居る必要がなくなり、色そのものになった彼らはもはや自由になって、かつての棲みかであったどす黒い水槽から外へと、躊躇しながら蠢いていった。

 屋上は、小さな遊園地の風情をしていた。懐かしい電子音が響き渡るなか、子供達が無邪気に走り回っては転び、手にしたポップコーンをこぼしては、泣く。煙草を咥えて一部始終を眺めたまま、笑顔さえ崩さずにそれを眺める祖父。

 空から降りてきたばかりの小さな移動遊園地は、僕の子供時代の夢そのままにあった。それは、親や祖父母に付き合わされて、デパートでのつまらない時間を過ごしたあとに貰える、ほんの2~30分のご褒美の景色だ。子供心にも天井が低いと感じたデパートの中は、とても多くの人がそれぞれの小さなうきうきを抱えている。おまけに、色々な人の香水や化粧品の香りが混じって息苦しく、目が回りそうだ。この、おもちゃ箱をいくつもぶちまけたあげくにその蓋を閉じたかのような閉塞的な空間のなかでは、他の多くの客のそわそわが僕に伝染して、無意味かつ無目的な高揚と不安に苛まれるのだ。

 そのきりきりした気分に無事耐え切ると、この屋上でのひとときが赦される。どこまでも天井のない空間は、都市のど真ん中でありながら緑がいっぱいで、軽々しい電子音とちかちか点滅するゲーム機のサインが、ここが大人のものでなくて紛れもなく僕の世界だということを教えてくれた。


 座って煙草を吹かして、僕は数十年ぶりに目にする懐かしい光景に目を細めていた。
周りを取り囲む高層ビルで日が翳り、ふっと屋上に陰が差した瞬間、狭い柵の中を嬉々として走るミニチュアの新幹線にトロッコ、カートが一斉に止まった。僕は慌てて、ゲーム機の並ぶほうに目を遣った。ゲーム機を彩るライトの点滅は、深夜に家の明かりが徐々に消えてゆくような素振りでひとつ、ふたつと消えはじめる。


 あ、あ、どうしよう、と思って無為に立ち上がった僕の眼の前を、白や橙や朱や赤のきらめく欠片たちがふわふわと不安げに横切り、僕を取り巻いたかと思うとまたゆらゆらと日暮れの空を漂い、緑色濃い水槽の中へぽちゃん、ぽちゃんと小さな水音を立てて戻っていった。








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2 コメント

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世界の果て (モルレン埼玉)
2007-03-05 19:19:18
子供の頃を思い出しました。

といっても屋上にある程の大きな施設のことではなくて、スーパーの横に10円でプラスチックの象とかがグアングアンと無機質なカム動作をする機械等が置いてある、あの妙に居心地の悪いスペースです。

その中にあったスペースシャトルのゲーム。
地球を模したブリキの背板上を、いかにも歯車駆動のぎこちない動きでゆっくりと周回して、うまいこと着陸地点に停止させるすごろく的なルールだったと思います。
両替してもらって遊ぶんですが、確か100円で3コイン、母親と買い物に行った帰りに必ずやらしてもらってました。(やらせないと大変だったらしい(笑 )

そしてその頃はそこが世界の境界線。
自分が知っている一番遠くの場所。
空は夕焼けだったり曇っていたり、真夏の快晴だったり。
一番遠くに来たんだ、という感慨。
でも不思議と世界の狭さは感じない、あの感覚が今、鮮明に思い出せました。

散りばめられた記憶がふとしたきっかけで色とりどり金魚のように泳ぎ始める瞬間、そして役目を終えるとまたもとの単なる神経物質に戻る過程。

思い出は暫く忘れているからこそ、いつか、思い出としての機能を果たすのでしょうね。
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上野。 (マユ)
2007-03-06 22:28:42
>モルレン

この記事は、リニューアルされた上野松坂屋を見学に行った際のオマージュです。
屋上に展開される光景は、とても身勝手な感想なれど21世紀のそれとは到底思えなく、カラフルなのにも拘わらずどこかセピアがかって見えたのでした。

10円や30円を投入して行う簡易なゲーム。
うまくいかないと、すぐに終わってしまうゲーム。
投入したお金の対価はゲームに勝つことではなく、勝とうとするドキドキした緊張感に対して支払うものだと知りました。

幼い頃でも、今でも、屋上遊園はなぜか「雲の上」。
届きそうで、届いたかなと思ったら、いつもちょっとだけ指先よりも先にある。
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