Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ΕΥΡΗΚΑ (2)

2009-10-06 | 徒然雑記
 更新が大変遅くなりました。
 高熱で臥せったりして心身ともに萎えておりました。

 インフルエンザではありません。流行に乗り遅れております。
 

 さて、前回記事の回答は以下のとおり。

【生まれつき全く耳が聞こえなかった聴覚障害者が、生まれてはじめて音を聞いた瞬間】


これと同様の経験は、なかなかできない。
人は老化や事故などで、身体の色々な機能を失ったり、機能が低下したりする。
だから、今まで持っていた感覚がレベルダウンするという意味でで変容することは多くあるけれど、今まで持っていなかった優れた機能を後になって得るということは多分非常に稀なことだ。

五感はひとの感情や情緒に直結する。言い換えれば、世界と自分の身体とを繋いでいる。閉ざされていたその機能がひとつ花開くことは、自分を取り巻く世界への新しい大きな扉がひとつ開いたことだ。


機械などのツールをもって、世界へのアプローチ方法は日進月歩で増えていく。
遠くまで行ける交通機関でもって、未知の地面に足を届かせることだってできる。
それはすばらしいことだ。
でもそれはすべて、既知の世界への新しい到達のしかたのひとつにすぎない。

わたしは、死ぬまでに一度くらい、新しい扉が開くような瞬間を体感することができるだろうか。





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2 コメント

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六感め、欲しいですね (モルレン埼玉)
2009-10-11 20:32:31
得るほうでしたか、そりゃそうですね。
無意識に失うほうへ傾いてる。
寂しいもんです。

新たに欲しい感覚ってなんだろうと考えると想像もつかないですから、少年の衝撃体験をイメージするだけでワクワクします。

いつも見ている景色も、色と匂いと感触とざわめき以外の体験が入力できれば全然違うものに変わるのかもしれません。

音を見たり、感触が聞こえる共感覚的なものは技術の進歩で実現できるかも。
(bot除けの数字が7777でちょっと嬉しかった!)
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想像がつかないこと (マユ)
2009-10-19 15:18:24
>レン玉

そうそう、逆の体験ならきっとこれからいくらでもできるんだろうと思うのよ。
比して、得るほうって、もはやこの年齢になると通常は訪れないと思うのよ。訓練で身体が柔軟になって、普段は見られない角度から景色を見られる、くらいのことはあるかもしれないけど。

未知の感覚に出逢ったときの自分も想像つかなければ、未知の感覚とはどういうものかもわからない。
それを想像しようと試みても、恐怖とも期待とも違う感覚でぞっとするのみです。その「ぞっ」ですら言葉で表すことができないのだから、実体験たるや、ということだよねきっと。


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