Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

金魚鉢。

2007-06-22 | 春夏秋冬
 空気にも重量があるのだということを感じることができる唯一の季節がやってきた。
 
 たとえ雨が降っていなかったとしても、空気の重さは私の背を丸くし、視線をつい俯きがちにさせる。
蔓延する水蒸気の粒ひとつひとつにミクロの水草やら金魚やらがゆらゆらと漂っていることを思い浮かべると、この空気の中を歩くことも少しは愉しくなるのかしら、と思う。
 我々の視力では決して確認できないけれど、実体顕微鏡で覗くときっとそれらの透き通った球体の中に、緑色した細い鞭のようなものや、ひらひらとたくさんの葉をなびかせるような水草が、そして赤や黄色や、まだらの金魚たちが多分ひとつずつ入っているのだ。普段は雲の中で身を寄せ合って棲んでいる彼らは、この季節になると各自が否応なしにてんでばらばら放散されて、地上にむけてゆるりゆるりと舞い落ちてくる。

 灰色の空から、灰色の雲を貫いて降ってくる雨の色は、まるで灰色な気分だ。
 青空の隙間からぱらぱらと降ってくる雨が鬱屈した気分を誘わないのは、多分空の色のせいで雨粒さえ青く澄んでいるかのような錯覚を起こさせるからに違いない。だったら、雨はドロップのようにきらきらしていればよいのだ。
 髪や服に当たって雨粒が砕けるとき、それは嘘のように透明に砕け散る。色はミクロに分かれて去ってゆくが、決して消失したわけではない。なぜなら、水蒸気となった小さな粒の中には、金魚や水草やビー玉の色をした色々が、ちゃんと詰まっているのだから。


 「もうすぐ夏だからね。お土産をもってきたよ。」

 箱を開けると、そこにはひとつの小さな金魚鉢があって、その中に泳ぐ真っ赤な金魚と苔に覆われたみどりの石が見えた。もうひとつの金魚鉢には、少ない光に照らされて黄と紫に反射するススキが二本と、その間を心細げに舞う蛍がいた。
 子供が小さな金魚鉢の中にひとときの夏を飼うのと同じように、きらきらした刹那的な季節が菓子の様相を成してそこにあった。どうしても手元に囲い込みたい衝動に駆られる夏の景色は、それがとても大きくて力強くて、そしてすぐに居なくなってしまうのを知っているからこそ、両の手に収まる程度の小さな場所に封じ込められるべきである。それは子供にとっても大人にとっても、祭りの終わりを怖れながら覗き込む、はかない甘い蜜なのだ。

 ひと夏を越すか越さないかのうちに死んでしまう金魚。
 見ることさえもなかなか叶わない、朧に発光する蛍。
決してその痕跡を所有できない季節の象徴が囲い込まれて、目の前にある。

 「ありがとう。」

 にこりと笑った私はその封じられた金魚鉢にスプーンを刺して、凍結された夏の幻影をぶち壊す。